キモい感情表現


自分の感情表現があまりにも気持ちが悪いという事に気付いて嫌な気分になっていた。しっかりしていないブログを始めて日々の感情を綴るごとに、客観的に見て「私の感情表現って気持ち悪いな」と思うようになった。


怒りや悲しみをスパーン!と出すことが出来たら気持ちがよいのであるが、むにゃむにゃと理屈をこねて、「あーでもない、こーでもない」と愚痴愚痴と言い、うやむやな感情表現をしてしまう。それは相手に配慮してというよりも保身の為である。保身の為に感情表現という名の自己主張をうやむやにしている。そこが気持ち悪く、自分でも吐きそうになる。


おおよそこの気持ちの悪い感情表現の原因は、感情表現をした事で相手に攻撃されたくないという防御の部分と、無意識な感情の抑圧から来ていると考える。


幼少期から感情を出す事を抑圧され、出したとしても無視されるか非難されるような環境で育った為、私の感情表現は正しい気持ちの良い出し方というものを知らない。攻撃されるかもしれないという不安と、自分の感情が道徳的に(あるいは理論的に)間違っているのではないかという不安からうやむやな便秘気味な表現になっている。端から見れば出ているのか出ていないのか分からない半端さであり、見ていても聞いていてもイライラするようなものだろう。


攻撃されるかもしれない不安については、私が「楽しい」とか「悲しい」とかの感情表現をした際に父母から常に拒絶されていたからだ。「楽しい」と思う事をしていると「何が楽しいの?バカじゃないの?」と言われ、「悲しい」と泣けば「人のいない所で泣いて」と言われていたし、理由を話した所で「そんな事で泣くの?」と言われる始末であった。


そういう環境で生きてきた事で私は感情表現を人前でする事をやめた。やめた事で自分の感情がよく分からなかった。「楽しい」とか「悲しい」とか「嬉しい」とかの感情をかなり意識しなくてはいけなくなった。自分の感情であるのに「多分、楽しいのだろう」とか「多分、嬉しいのだろう」という風に手探りで見つけなくてはいけなくなってしまったのだ。これは繰り返し、繰り返し意識して胸の内に浮き上がる諸々に感情名をラベリングしていけばどうにかなるのかもしれない。長い時間がかかるだろう。


道徳的に(理論的に)間違っているのではないかという不安については「楽しい」と「嬉しい」、「怒り」の感情に付随している。父母は人の不幸を楽しみ愚かさを笑うような人間であったので、自分が「楽しい」「嬉しい」と思う事に少しでも父母と同じような愉快を感じていないかと不安になる。また、父母はささいな事で理不尽に怒りを表す性格であったので、自分の感じた「怒り」が理不尽でないか、正当であるかという事を重視するようになってしまい、本当なら怒っても良いような場面でもすぐに怒る事ができなくなってしまった。


感情の瞬発力が弱いのは克服できるのだろうか。私にはわからない。多くの本を読んで分かった事はこれも訓練しなければ習得できない事なのだろう。本来ならば幼少期に得るべき能力なのだが、得られるような環境でなかったのだから仕方がない。


この文章を読んでなんとなく察した人もいるかもしれないが、私の今の文章は非常に理性的で感情的な部分が少ない。本来感情的な文章であれば、私は父母に対して罵倒の言葉を吐いて怒りや悲しみを表すであろう。しかし、この文章はそうではない。非常に冷めている。感情の火種が何処かに隠れている文章でもない。感情が排されている。


これも問題の1つである。私は文章を書く時に感情を排している。排する事で安心しているのかもしれない。感情に向き合わなくても済むから。感情に向き合うという事は20年以上人権のない環境で生きてきた傷と向き合う事である。本当は今でも苦しいし悲しいし痛みが酷く続く。しかし、いつまでもそこで立ち止まっているのは嫌であった。嫌であるから振り捨てようとしているのかもしれない。だから感情の薄い文章しか書けないのかもしれない。


残り少ない歯磨き粉を絞り出すような必死さで気持ちの悪い感情表現しかできない私はいつか、綺麗な気持ちの良い感情表現ができるようになるのだろうか。自己と言える感情表現が。誰の顔色も考えず感情のままに何かを表現できるようになるのだろうか。それはこれから諸々の事をしながら試行錯誤するしかないのだろう。


この試行錯誤の中に今やっているブログがある。特に作為なしに手が動くままに書いているのであるが、打ち込んでいる内に「私ってこんな事考えていたのか」「こう感じていたのか」と驚く事が多い。感情が無意識に抑圧され隠されるのだったら、無意識に出せるようにすればいいという作戦は功を奏したのかもしれない。ただ、未だに自分というものと感情というものが解離しており結合していない感じはある。長い時間がかかっても「私の感情である」という認識が持てればいい。


そして、自己表現として気持ちのよい感情表現ができるようになったらいい。




コーヒー豆を買いたいです。