見出し画像

01/バンコクから陸路で国境を越えてヴィエンチャンへ

秘書として弁護士事務所で働き始めて何年目かの夏休みに、タイを経由して陸路でのラオス行きの計画を立てました。

事務所で目にした新聞に、ある一枚の写真が載っていたのです。

ラオスは仏教国なので、毎朝お坊さんが町中を托鉢して廻ります。

お寺をバックにしたその朝の様子を、古都ルアンパバーンのどこか小高い丘の上から撮り下ろした写真でした。

今思えば、その写真をとっておけばよかったなと思うのですが、残念ながら手元には残っていません。

ですが、たった一枚のこの写真が、それからの私の人生を大きく変えるきっかけとなったのです。


それを見た時、なぜだかどうしてもそこへ行きたいという強い想いに駆られました。

この写真を撮ったであろう同じ場所からの眺めを、実際に自分の目で見てみたいと。

当時、一眼レフで写真を撮るのが好きだったので、その景色を自分でも写真に収めたいと思ったのです。

他の人から見たら、特別印象に残るような写真でもなく、ラオスではどうということのない日常の風景だったのではないかと思います。

それでも、私にはその光景が頭から離れず、それからというものどうやって行ったらいいのかを模索し始めました。

正直に言って、それまでラオスという国すら知りませんでした。

調べてみてわかったことは、ラオスへは直行便が飛んでいなくて、どちらにしてもタイ経由で飛行機を乗り換えなくてはなりません。

しかも、当時のラオス便は、かなり古いプロペラ機を使用していて、あまりよい噂はありませんでした。

すでに何ヶ国をも使い回されたあとの古い機体で、機内に煙が立ち込めただとか、同じ機種がどこかで落ちただとか、そんなことが噂されていました。

それならばと、空路をあきらめタイから陸路で行くことにして、約10日間ほどの旅に出ることにしたのです。

成田-バンコク間の往復の航空チケットと、初日のバンコクのホテルの予約だけしての出発です。

この頃はまだインターネットがあまり充実していなかったので、資料といえば、新聞に掲載されたその写真の切り抜き一枚と、ラオスの情報として、東南アジアというくくりで12、3ヶ国が一緒になった地球の歩き方に載っていた数ページだけでした。

バンコクへは、何年も前にツアーでサムイ島に行くために寄った程度でしたが、初めてではありません。

ただ、その頃のタイはまだまだ発展途上で、ドアが開いたままのバスに身体半分をはみ出した状態で乗っている人たちを見て、とても驚いたのを覚えています。

マイレージを利用してのユナイテッド航空成田-バンコク間のフライトだったので、当日の夜遅くにバンコク入りして初日は終わりを迎えます。



翌日ホテルで朝食を取ってから、東京駅のような地方都市への列車の始発駅となるファランポーン駅へタクシーで向かいました。

夜8時頃に出発の寝台列車に乗ると、翌朝の6時過ぎにはラオスとの国境の町ノーンカイに着くので、その列車の予約をしに行くためです。

そのタクシーの中でのこと。

ファランポーンまでと伝えると、運転手が車を走らせ始めてすぐに「何しに行くのか?」と、尋ねられました。

「ノーンカイへ行くの」という私に、「駅で誰かと待ち合わせしているの?」と聞くので、「いいえ、一人で」と。

すると即座に、それはよした方がいいと言い出しました。

夜行列車は治安が悪いから、女性でしかも日本人が一人で乗るなんて危ないから絶対に辞めた方がいいと言って、空港まで乗せて行くから飛行機で行きなさいと私を説得し始めたのです。

いやいや、どうしても駅に行きたいと主張する私。

お互いに片言の英語でのコミュニケーションに行き詰まり、行ってくれないのならお金払うからここで降ろしてくれと言い、走っているタクシーのドアを開ける素振りをしてやっとの思いで降ろしてもらうことに。

タイのタクシーは、自動ドアではないので乗客が自分でドアを開け閉めするのが普通です。

とりあえず、そこまでの運賃を払い、降ろしてもらったところで次のタクシーを待つことに。

これがまたなかなか来ない。

というより、タクシーがあまり通らないような場所だったようで、先ほどのタクシーの運転手が降りた私にまだしつこく説得しようと、タクシーの窓から何か言ったり、近くにいた他のタイ人に何やら説明したり。

そうこうしているうちにやっと他のタクシーが通りがかったので、なんとか乗せてもらい駅まで行ってもらうことに。

このタクシーの運転手はなんの問題もなく行ってくれたので、なんだったのか全くもってわかりませんでした。

ただ、寝台列車の治安があまり良くないということだけはわかったので、気を引き締めなければと思うのでした。

人の良いおせっかいな運転手さんだっただけかもしれませんが、決められた期間内で目的地まで行くには、そんな風に足止めされても困り果てるしかありません。

それに、むしろどこか違うところへ連れて行かれるんじゃないかと、途中からそのタクシーの運転手のことの方が怖くなってきていました。



こうしてようやく駅に着くと、映画館のチケット売り場のような、駅員とお客さんとが透明な板で仕切られたブースが横に何列か並んだチケット売り場がありました。

普段なら並んでいる人が一番少ない列か、自分がいるところから近くの列に並ぶのに、なぜかその時ばかりは駅員さんの顔を見てから決めようと思ったのです。

つたない英語の私と、英語がしゃべれない駅員さんだったらお互いに困るだろうとの判断からでした。

自分がいた列の先を見ると、わりと色が黒くてザ・タイ人といった感じの人だったので隣のブースを覗いてみることに。

今の人とは対照的なちょっとタイ人離れした感じで、あくまでも私の勝手な想像でしたが、英語がしゃべれそうだったのでそちらの列に並ぶことに。

できれば明日の朝バンコクを出発し、アユタヤに寄って遺跡観光してから、アユタヤを夜出発の寝台列車に乗って翌朝国境の町に着く列車を予約したかったのです。

さて、タイ人離れした顔の駅員さんに伝えます。

何時出発の列車が希望なのかと聞かれ、9時発と答えます。

それに対して駅員さんに、ないと言われました。

ならば、10時は?と聞くと、それもないと言われます。

では、11時は?と聞くと、それもないとのこと。

うーん、と思いながら12時は?と聞くと、それもないとのこと。

えーー、そんなに混んでるの?と思いながら、仕方ないので13時のは?と聞くと、それならあるとのことで、やっとの思いでアユタヤ行きを予約し、さらに夜出発の寝台列車も同時に予約することに。

本来は1等の個室があるのですが既に埋まっているようで、結局2等の二段ベットの上部を確保して予約完了となりました。


やれやれ、アユタヤ行きはそんなに混んでいるのかと思いながら、暑いし一仕事終えたので、駅構内にあったパブスタイルのお店のカウンター席でシンハービールを飲みながらガイドブックを眺めていました。

その時気がついたのが、アユタヤ遺跡はほとんどが16時には閉まってしまうことがガイドブックによってわかったのです。

13時発の列車に乗って約1時間半。

アユタヤに着くのが14時半。

それからトゥクトゥクで移動したとしても、ほとんど見れないじゃん!!

ということで、時間を変えてもらことに。

それならばと、同じ駅員さんにお願いするべくまた列に並びます。

その時になってよく見ると、あれっ?この駅員さんかなり格好いい。

最初はただ英語がしゃべれそうというなんの根拠もない選択だったけれど、よく見ると好みかも?!

自分の番が来たので時間を変えて欲しいことを伝えると、またまた何時が希望かを聞かれ、先ほど翌朝の9時以降はなかったので、8時は?と聞くと、それもないとのこと。

ちょっと早いけど、7時は?というと、それもないとのこと。

じゃあ仕方ないから、6時は?と聞くと、それもないとのこと。

このあたりで、何かおかしいと思った駅員さんは、ブースの小さい窓からメモとペンを差し出し、もう一度ここに書いてくれと。

それに私は、翌日の日にちと、第一希望の09:00と書いて差し出すと、それを見て、「あー、明日ね」と苦笑いしながら一言。

「あなたは、さっきから今日と言ってたよ」と。

「んん!?」

自分では明日と言ってるつもりで、なぜか今日と言っていたようです。

その時点で12時半ちかく。

だから13:00前の列車は、すべてなかったのです。

自分ではトゥモローと言ってるつもりなのに、なぜかトゥディと言ってたなんて。

本人全く自覚なし。

それにしても、それならもっと早く言ってくれてもいいのに、、、。

英語がしゃべれるような駅員さんをと言いながら、自分がしゃべれていなかったというなんとも恥ずかしいことに。

それでも、縁とはとても不思議なもので、これを機にチケットの変更手続きをしてもらいながら世間話へと話は移っていき「ノーンカイには何をしに行くの?」と聞かれたので、「ノーンカイから国境を越えてラオスまで行くの」と。

すごく驚いた様子の駅員さんは、「ラオスに友達がいるの?」と聞くので、「ううん、いないよ」と答えると、「またタイには戻って来る?」と言うので、「まだいつになるかはわからないけど、バンコクには戻って来るよ」と答えると、さらに「タイ人の友達はいる?」と聞かれたので、「いない」とわたし。

それならばと、「バンコクに戻って来て時間があったら食事にでも行こう」と言って、携帯の番号と名前を書いたメモを渡されたのでした。

これって早い話、ナンパ?

白昼堂々と仕事中にお客さんをナンパ!?

日本ではあり得ないかもしれないけれど、なんていったってここはタイ。

そんなこともあるあるです。

よく見たら格好いいし、身元はしっかりわかってるし、誰も知らないより心強いし、と若干浮かれながら駅を後にしたのでした。

因みに、この時のメモは今でも大切な思い出としてとってあります。



さて、翌日無事にアユタヤに着いて遺跡巡りをし、暑さにやられたせいか、いつも以上に疲れたので駅のベンチで横になりながら待つこと2時間。

予定より少し遅れて列車が到着。

アユタヤより先から乗って来ていた他の乗客は既に寝ている人が大半のようで、シーンと静まり返っていました。

そのまま共同の洗面所で歯磨きと顔を洗って寝床に落ち着くと、日本のレールとははるかに違いかなりの振動と音に悩まされつつも、昼間の疲れのせいでなんとか眠りにつくことに。

それでもタクシーのおじさんの言葉を思い出し、お財布とパスポートをバックパックの奥の方にしまい、寝ている間に持っていかれることがないようにバックパックを紐で体の一部にくくりつけ、壁側に向かって抱きかかえるようにして就寝。

翌朝、駅に着く30分ほど前に、車掌さんが一部屋一部屋声をかけて廻るようで、私もその声で起きました。

眠い目をこすりながら開けようとするけど、目が開かない。

なんだか変な感じ。

ん?目がちゃんと開かない??

荷物の中から手鏡を探し出し、自分の顔を見てびっくり!!

今まで見たこともないほどに目が腫れていたのです。

腫れているなんてもんじゃなかった。

寝ている間に何が起こったのかわかりませんでした。

蜂にでも刺されたのだろうか?

いやいや、両目とも?

私に思いつくことなんて、その程度でした。

どうしよう、もう国境だし。

痛みはないけれど、瞼が腫れて重いのです。

他に異変はないかと見てみると、腕にもポツポツと赤い斑点のようなものができていて少し痒い。

いったい何が起きているのだろう?

そうこうしているうちに駅に着いてしまったので、降りないわけにもいきません。

駅の構内で歯磨きして、もう一度大きな鏡で確認するも、やっぱり目が腫れているし顔全体も腫れぼったい。

どうしよう?

もし、このままバンコクに戻ったとしたら、今回はラオスのあの景色はあきらめなくちゃならないし。

さて、どうしよう??

ここまで来たらもう行くしかないよね、行かないで後悔するぐらいならと自分に言い聞かせ、強行突破を決めたのでした。


不安になりながらも国境のイミグレーションに並んでいると、後ろから日本語で「きみ、日本人?」と声をかけられたので振り向くと、日本人のおじさんが立っていました。

「パスポートが日本のだったから」と。

「一人で来たの?」

「はい」

「よくこんなところまで一人で来たね」

「はい」

当時国境越えをしていた外国人は、数人の欧米人と、日本人のこのおじさんと私だけでした。

この方はバンコクに住んでいて、仕事でラオスとタイとを行ったり来たりしているとのこと。

そのためによく来るそうですが、ここで日本人を見かけることはなく、とてもめずらしかったので声をかけたとのことでした。

仮に、この方の名前を伊東さんとしておきます。

以前は日本の某商社に勤務していたそうで、今は辞めて自分でビジネスをしながら奥様と二人でバンコクに住んでいるとのことでした。

初対面で、こんな腫れた顔してちょっと気になったので、「あのー、実は普段はこんなに腫れてないんです。起きたらこうなっていて」と言うと、「何食べたか覚えてる?」と聞かれたので、「はい」と。

伊東さんがいくつか名前を挙げた物の中に、卵が。

あっ、食べた食べた!

一昨日の朝と昨日の朝の2回。

それもスクランブルエッグにして。

バンコクで泊まったホテルは3つ星ホテルで、コックさんが注文を受けてから目の前で殻を割ってスクランブルエッグを作ってくれたんだけど、、、。

伊東さん曰く、卵を移送する間にトラックの荷台で直射日光に当たって痛んでいたのではないかと推測。

日本ではないようなことも、ここは東南アジア。

あり得る。

わりと体力はある方なのに、なぜか昨日は列車を待つ間ベンチに座っていられなくて横になったのにもちょっと納得。

とりあえず、原因がわかってよかった。

「ところで、ヴィエンチャンの町まで結構距離あるけどどうやって行くの?」と聞かれ、「あっ、考えていなかったです」と私。

「車で迎えが来ることになっているから、よかったら乗って行く?途中で薬屋に寄ってあげるから」と。

なんて親切な。

「ありがとうございます」とお礼を言って、一緒に乗せてもらうことに。

「どこで降ろせばいい?宿は取ってあるの?」

「まだです、来てから決めようと思っていました」

「僕が泊まるホテルでよかったら、部屋空いてるか聞いてみようか?」

「ご迷惑でなかったら、お願いします!」

と、何から何までお世話になることに。

いやー、顔が腫れててよかった、、、。



それからのヴィエンチャン(ラオスの首都)で過ごす3日間、この伊東さんについて仕事先に行ったり、国境に迎えに来てくれていたラオス人のお家に招待してもらったり。

仕事先と行っても、材木の輸入業をしていらっしゃたのでラオス人の運転する車で山林へ行った帰りに見晴らしの良いレストランでご飯を食べたり、ほとんどドライブ気分でした。

まさかヴィエンチャンでドライブができるなんて思ってもいなかったので、本当に楽しかった。

また、このご飯が凄く美味しかったし。

観光客だけではなかなか行けないような場所にあって、空気も景色も良くて、現地の人が食べる地元ご飯も美味しくてサイコー!!

二人も普段の代わり映えのない道中ではなく、私がいることでいつもとはちょっと違った状況を楽しんでいるようでした。

でも、伊東さんの名誉のためにも言っておきます。

それまでアレルギーにも蕁麻疹にもなったことがなかったので、どうしてよいのかもわからず、あまりにも不細工な私を可愛そうだと思って親切にしてくださったのだと思います。

だって、本当に酷かったのですから。

それでも仕事先に関係のない人を連れて行くなんて日本では考えられないことですが、ゆるい東南アジアではそんなこともあるあるなようでした。

また、このラオス人のお父さんが地元ではかなりの資産家で、日本でいうところの県議会議員をしているらしく、私の家なんかよりも何倍も大きくてびっくりするほど立派なお家に招待してもらったりと、一人だったら絶対に経験できないようなビエンチャンライフを送ることができました。

2泊して仕事が終わった伊東さんは、翌日バンコクに戻るとのことで、私はヴィエンチャンからルアンパバーンまでを空路で移動することに。

ヴィエンチャンからルアンパバーンまでは、300キロ以上離れています。

当時、ヴェエンチャンからルアンパパーンまでの途中で盗賊に襲われる事件が頻発しているとのことだったので、結局陸路移動はあきらめて飛行機に乗ることに。

飛行機も飛行機で違う意味で怖いけど、仕方ないか。

それにしても『盗賊』って!?

それまでは、日本昔話とかディズニーの中でしか聞いたことなかったけど、本当にいるんだってちょっとした驚きでした。

確かに、地球の歩き方にも書いてあったし。

こうなると、バンコクで飛行機乗り換えて直接ルアンパバーンに行けばよかったんじゃないの?ってことになるけれど、もしそうしていたら、その後の人生の物語が始まらなかったであろうことにずっとずっと後になってから気づくのでした。

翌日は、ラオス人の彼が車でホテルまで迎えに来てくれて、一緒にお昼ご飯を食べてから空港まで送ってくれました。

この彼は、私よりもずっと年下で、とっても可愛い顔をしていました。

いいとこの子は、東南アジアの陽射しの強い環境にいても、陽にさらされるような生活していないからか、色が白いのねということを始めて知ったのでした。


※情報に於いては年月の経過により変わりますので、どこかへ行かれます際には、現時点での詳細をお調べいただきますようお願いいたします。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?