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変身願望ー正体?

変身願望について、ぼんやりと考え込んでいた。

最近、西部劇をよく観ることから、まるで英米文学科の気分。

ところで自己の現状を受け入れられない場合、異なる文化への同一化を通じて、特権的な優越感と安心感を見つけようとする潜在的な動機が、変身への願望の基盤となるのかもしれない。

公開中の『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』もそういう要素があったのでは。最近観たサミュエル・フラー監督の『赤い矢』は諸にそれがテーマだった。どちらも、(割りとエゴが強い動機で)白人男性がインディアンの女性と結ばれ、家族となる物語だ。

ある種、父性的な信念が欠如していると、宗教や国家などに同一化するのは自然で、それらが時代の転換期において危機に直面した際、異文化に避難しようとするのも一般的だ。

恐らく、アラビアのロレンスも同じような経験をしたのかもしれない。

どちらにせよ、逃亡者としてのアイデンティティは一貫している。その一貫性が、物語としてはエモいかもしれない(笑)判官贔屓みたいな感じか,

文明化された白人男性社会からの逃避行で異なる文化に身を投じる。しかしながら、そこで、もし自分を否定されても、敗北主義的な考えが彼らの隠れ蓑となっている。「どうせ俺はインディアン(あるいはアラビア人)にはなれない」という感覚が、安心とオリエンタリズムの混ざった堅固な塔に自己を幽閉している(もしくは、されていると思い込む、が近い)。「中途半端なのは環境のせい」このような自意識について、漠然と考えていた。

「彼らとは違う」というデタッチメントの立場を保ち続けることによる逃避が、変身願望につながる話について、もう少し考えたい。純粋さと神経症、演技性、恋愛などの観点からも。

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