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【父方ルーツ #12】じいじになった父と、父の兄たち

最高の冬休み

昨日は父の誕生日。
今年も元気にこの日を迎えることができました。
…と言いたいところですがちょっと風邪気味のご様子。

実家にLINE電話をしたけれど、父は早々に休んでいるということで、いつも通り母との長電話となりました。

この年末年始に弟ファミリーが帰省し、その際にちびちゃんから風邪をもらってしまったうえに遊びすぎた疲れから、珍しく寝込んでいるとのことでした。
(今はかなり回復したようで一安心です)

仕事の都合でママ(義妹)はお留守番、パパ(弟)がひとりで2歳の姫と5歳の王子を抱え年末早めに札幌入りし、元日早々東京へ戻る予定だったようです。

ところが寒波による大雪で元日の千歳は欠航便が相次ぎ、予定変更せざるを得ず空港から再び実家へ帰ることに。
その上6日まで空席がなく、結局滞在期間が予定よりも大幅に延び超ロングラン帰省となったようです。(大変だっただろうけれど、ちよっと羨ましい!!)

王子も姫もママがいないとぐずることもなく、雪遊びを思う存分堪能し、さらには延長決定でそり遊びを満喫しすっかりご満悦。

一方でぐったりのパパとじいじとばあば。
本当にお疲れ様でした。

とはいえ、お正月に加え少し早めの父の誕生日にケーキを囲み、孫たちから「ハッピーバースデー」を歌ってもらい、とても幸せな冬になったようです。

父にとっても離れて暮らす可愛い孫と過ごせる貴重な時間は最高の誕生日プレゼントとなったことでしょう。

かわいい孫たちのおかげで、父はすっかり「じいじ」になりました。

そしてじいじとばあばと過ごした大雪のお正月の記憶は二人の幼い心にも大切な思い出になったことでしょう。

こうやって思い出のバトンは繋がれていくんですね。

いつの日か、彼らにとってじいじのことも、じいじが子供だった時のことも大切なお話になるかもしれない。

そらおばちゃんの先祖探しのお話にも興味をもってくれるだろうか。

そんな日を想像しながら、父と父の兄弟のお話も残しておきたいと思います。
 

私が幼い頃生活した家、父が幼い頃生活した家


父は70代を迎えた今も地域のボランティアや町内会の活動に多忙な生活を送っています。

ことあるごとにお祭りやら会議やら学校行事やらに駆り出され、この夏はオリンピックのマラソンが札幌で開催されたこともあり、黄色いTシャツを着て沿道ボランティアにも参加しました。

現在両親が暮らす実家の家屋は30年ほど前に建てかえられたものですが、父はそのままその場所で生まれ育ちました。

それより以前は同じ敷地内に、父の生家でもある祖父母の家と、私たち家族の家が隣あって建っており、私も10歳になるまでそこで暮らしておりました。

どちらの家も建て替えの際に取り壊してしまったのですが、微かな記憶の中に古い家の間取りや景色や空気感がしっかりと残っています。

祖父母の家の居間にはとても珍しいペチカがあり、壊してしまったことが惜しくなるほど素敵な家でした。

ご存じですか?ペチカ。

ペチカは壁の一面がレンガ作りになっていて、内側に熱源があり、蓄熱したレンガからポカポカ温かさを放ちます。

どんな構造になっていたのかは定かではないですが、優しい温かさの中で食べたお蜜柑の香りが記憶の片隅に残っています。

祖父母と私たちは寝食こそ別々の生活をしていましたが、お風呂は祖父母の家にしかなかったため、いつもそちらの家で入っていました。

祖父母の家まではたった数歩の距離ですが、真冬のお風呂時間にはキュッと冷える外気に触れなくてはならず、大きな氷柱を横目に寒い寒いと家に飛び込んだ記憶が蘇ります。

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昭和30年頃の父の生家

この写真は昭和30年代でしょうか。

父が子供の頃に過ごした家の様子であり、私の記憶にある祖父母の家はその後少しリフォームされたようです。

写真手前側に私の生家があるはずですが、写っていないということはこの時代にはまだ建っていなかったのかもしれません。

縁側にはソファが置かれていて、おしゃれだった祖父母の嗜好が垣間見えます。

その縁側に面しているのが仏間で、立派なお仏壇がありました。

物心つく頃にはあたりまえのように、祖父母と共に仏壇の前で手を合わせ、お墓参りにも頻繁に足を運んだものです。

子供なのに「おじちゃん」?

ところで

仏間といえば子供の頃は近寄りたくない怖い部屋のイメージではないですか?

実際、子供の頃私は母方祖父母の家にあった仏間がどうにも怖かったのです。

今でこそ先祖調査を始めたことで、その写真が曽祖父母の類蔵さんとイヨさんという名前を持つ存在だとわかり、怖さではなく親みを感じますが、当時はピンボケ白黒写真の誰だかよくわからない老父老母がそれはそれは怖くて・・・

(ごめんねひいおじいちゃん、ひいおばあちゃん。今度は二人のことも記事にするから待っててね!)

しかもその仏間は家の北側にあるため薄暗く、夏でもひんやり冬は極寒の冷蔵庫のようであり、ちょっとした食品保管部屋のようにも使っていました。
それゆえ、お手伝いでその部屋に何か取りに行かなくてはならない時は、ダッシュで駆け込みダッシュで退出するという兎にも角にも近づきたくない部屋でした。

そんなイメージ通り(?)の仏間がある母方祖父母宅。(ごめんなさいっ!!!)
一方で父方祖父母宅の仏間は全く怖い印象はありませんでした。

やはり仏間ですから、そこにも白黒の写真が2人飾られておりました。

1人はランドセルを背負った幼い頃の弟に似たぱっちりお目々の可愛らしい少年。
もう1人は鼻筋の通り切長の瞳、なんなら俳優にでもなれるのではないかと贔屓目に称賛したくなるほどの透き通る雰囲気の好青年。

そんなこと改めて考えたこともなかったけれど、仏間といえど怖い部屋ではなかった理由が今これを書きながら納得しているところです。

むしろ澄んだ空気が漂っていた印象でした。

(ひいおじいちゃん、ひいおばあちゃん、ごめんなさい!2回目)

話を戻しましょう。 

父は男3人兄弟の末っ子で兄が2人いましたが、私はその2人の叔父に実際に会ったことはありません。

そのお兄さんたちこそが仏壇の主だったからです。

「おじちゃん、こんにちは」と呼びかけ仏壇に手を合わせていた幼少期。
どう見たってそこにいるのは「おじちゃん」ではなく「お兄ちゃん」。

幼い頃はあまりにも当たり前に「おじちゃん」と呼んでいたけれど、そのことがかえって切なくなるのは私が歳を重ねたからこその感情でしょうか。

長兄は10歳、次兄は21歳で2人とも腎臓の病気で他界されたとのことでした。
長兄が亡くなった時、父はまだ2歳。
次兄が亡くなった時、父は19歳。

父は兄弟を失うという経験をどう捉えていたのだろうか…

長兄も次兄も幼い頃から体が弱く入退院を繰り返していたようです。
次兄はそんな中でも高校を卒業したのち、希望していた東京の放送関係の学校に進学したそう。

上京の夢がかなったものの再度体調を崩し、21歳の時に東京の大学病院で他界されたとのことでした。

長男を可愛い盛りの10歳で失い、体が弱いながらもようやく青年を迎えた二男を心配しながらも東京へ送り出し、そのまま遠い土地で息子を失った祖父母の気持ちを想像すると胸がギュッと締め付けられます。

お仏壇がいつもお花やお供えで溢れていたのは、先祖もさることながらそこに愛しい息子がいたからだったのでしょう。
ほんの少しかもしれませんが、祖母の人生を知ることができた気がします。

 
長男に続き、二男を再び失ったばかりの祖父母は、1人残った息子(父)を親元に置いておきたいと強く希望し、社会人になるときも地元での就職を強く希望されたとか。
父はそんな祖父母の思いを背負いながら私たちの家族を守りつづけてくれました。
 
兄2人ともに腎臓が弱かったにもかかわらず、三男である父はこれまで大病することなく今も健康に過ごしています。

お兄さんたちが父を守ってくれているのだと思わずにはいられないし、私たち3姉弟も元気に中年期を迎えることができたのもまた、若い二人のおじちゃんと祖父母の存在のおかげかもしれません。


感謝の気持ちを込めてファミリーヒストリーの一幕にこの2人の存在をどうしても記しておきたいと思いました。

家族の風景


ここまでお付き合いくださった方にも感謝の気持ちを送ります。
ありがとうございました。

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