見出し画像

魔術が響き合う-芥川龍之介と谷崎潤一郎【エッセイ#48】

noteを見ていると、創作されている方の作品で、共通のお題を決めて競作したり、同じ人物を使ったりしている作品がありますね。

実は、教科書にも載っている二人の文豪、芥川龍之介と谷崎潤一郎にも、そのような作品があります。

その作品を読んでいると、二人の資質の違いが如実に分かって非常に興味深いです。題材の処理だけでなく、彼らの文学観、人生観のようなものの違いがはっきり分かるのです。

芥川龍之介

芥川の1919年の短編、『魔術』は、あるインド人の男から、主人公が魔術を教わろうとする作品です。「欲を捨てること」という条件と引き換えに、魔術を習得した主人公は、ある日、友達の前でそれを披露します。しかし・・・というもの。

 短いですが、初めから終わりまで、非常にシャープに研ぎ澄まされた秀作です。その冒頭、次のような一節があります。

マティラム・ミスラ君と云えば、もう皆さんの中にもご存じの方が少なくないかも知れません。ミスラ君は長年印度の独立を計っているカルカッタ生まれの愛国者で、同時にまたハッサン・カンという名高い婆羅門の秘法を学んだ、年の若い魔術の大家なのです。

 この作品でのミスラ君は、温厚で少し謎めいた人です。ある雨の日、大森の彼の家に行って、彼の魔術を見せてもらい、主人公は魔術を教わります。

では、ご存じの、とはどういうことかというと、この人物の名前は、谷崎潤一郎の短編の中に出てくるのです。それが谷崎の1917年の作品『ハッサン・カンの妖術』です。
 
芥川と谷崎は、作風は対照的ですが、大学時代に知り合って、『新思潮』という同人誌を作ったりしています。文学観の違いで議論することがあったりするも、しばしば一緒に食事したりして、非常に仲が良い二人でした。芥川が『ハッサン・カンの妖術』から人物を借用したのも、そうした気兼ねのない仲で、気軽に許可を貰ったからでしょう。

谷崎潤一郎

私は長年芥川の短編に親しんできて、後になって『ハッサン・カンの妖術』を読んだのですが、かなり驚いたのを覚えています。「こんな変な短編だったのか」というのが、まず思ったことでした。芥川の作品のイメージとは、全く違うのです。


この作品は、谷崎本人を思わせる作家の男が主人公です。上野の帝国図書館で調べ物をしていた男は、インド人のミスラ氏という男と知り合います。

彼と一緒に酒を飲んだり、政治について議論したりして親しくなっていくうちに、彼の使えるハッサン・カンのインド魔術に興味を持ちます。そして、ある日彼の魔術を体験することとなります。
 
この作品は、野崎歓が、大正時代の谷崎の作品を論じた『谷崎潤一郎と異国の言語』という傑作評論で、一章を割いて、詳しく論じられています。是非そちらも読んでいただければと思いますが、そこでも触れられている通り、この短編の驚きは、その魔術体験の中身と結末でしょう。

予が目撃した須弥山の世界を、詳細に語ろうとすれば、何年かゝっても語り尽す事は出来ないだろう。それはほとんど、宇宙と同量の紙数を要し、文字 を要するに極まっている。

原文ママ

魔術によって、なんと霊界というか異界を旅するという、荒唐無稽な展開です。幾重にも張り巡らされた大げさな修辞、とても正気とは思えないような筋で、最後に巡りつく、意外な場所。

いや、散々インド魔術や異国情緒にこだわったあげく、こんなところで終わっていいのか、という驚きは、おそらく多くの人が思うことだと思います。

この作品には、同年の谷﨑の母の死が影響していると言われています。が、それにしても、あまりにも都合のいい、抜け抜けとした展開は、真面目な読者を困惑させるでしょう。しかし、実のところ、彼のスタンスは、他の作品と変わっていません。



谷﨑作品の特徴を一言で言うと、なにかを欲望して、それに一体化しようとする動きです。勿論、そんなことが現実に簡単にできるわけでもないので、しばしばその欲望の対象を、フェティッシュに崇拝します。

『刺青』の真っ白い背中、『瘋癲老人日記』の若嫁の足、『春琴抄』の師匠の肌。こうしたものを巡って、延々と描写が連なって、物語は引き延ばされていくのです。

『ハッサン・カンの妖術』でも同じことです。ここでのミスラ氏は、西洋と自分の東洋の文明の違いに悩む、いわば谷﨑の分身です。

その分身と一体化して、この世を超越した力を得て、異世界を観たい。そしてその先にある究極の欲望を叶えたい。その邂逅のチャンスを得るために、作者が研究したとは到底思えないインドっぽい哲学や、政治談義が延々と続きます。そして読者はその語りの面白さに身を委ねるわけです。


こうした谷﨑の作品の面白さを踏まえると、芥川の面白さも見えてきます。

まず、芥川の主人公は、ミスラ君と一体化しようとしません。あくまで、客人の立場を貫きます。

そして、彼が使う魔術というのは、テーブル掛けの模様を本物の花にしたり、借りていた本を鳥のように飛ばして返したりと、要するに、イメージを現実化するものです。

自分のささやかな欲望を実現させるというエゴは、果たして許されるのか、という主題は『蜘蛛の糸』『鼻』『杜子春』といった代表作でも展開されていました。その意味で、芥川の作品の方も、作家のスタンスがよく表れています。


そして、このイメージの現実化のために、芥川は繊細に言葉を組み立てます。この作品の雨の描写を読めば、実に巧妙に時間処理が行われていることが分かります。何を語って何を語らないかの取捨選択が、絶妙なのです。

更に、後半のカード場面のクライマックスは、明らかにロシアの文豪プーシキンの名作短編『スペードの女王』を下敷きにしています。高い文学的教養と遊び心が、人間のエゴの探求にうまく溶かしこまれています。

こうした繊細さは、谷﨑御大の、野放図なまでに語りまくって、自分の欲望が現実化できないなら、適当にあり合わせの素材を繋ぎ合わせて霊界をでっち上げ、そこで叶えてしまえ、と言わんばかりの、エゴ丸出しのいい加減さとは、どこまでも対照的です。


そして、この二人の魔術の処理の仕方は、そのまま、彼らの小説観、ひいては芸術観にも繋がります。奇しくも、『魔術』の中で、ミスラ君は静かにこう語ります。

私がハッサン・カンから学んだ魔術は、あなたでも使おうと思えば使えますよ。高が進歩した催眠術に過ぎないのですから。

原文ママ

まさに言葉を寄せ木細工のように慎重に組み立て、読者を幻惑する高度な催眠術こそが、芥川の真骨頂でした。彼にとっての文学とはそういうもので、催眠術であるがゆえに、持続して長い作品を作ることが、とうとうできませんでした。

そして、彼の中に、これは催眠術に過ぎないという冷めた意識があるからこそ、エゴの罪悪感や倫理との葛藤に悩み、悲劇的な最期になってしまったのかもしれません。


一方、『ハッサン・カンの妖術』では、ミスラ氏は、饒舌にこう語ります。

これがハッサン・カンの魔法の内の、最も重要な、最も驚くべき術なのです。それは一種の催眠術だと云う人があるかも知れません。

しかし、催眠術だとすれば、少くとも天人から人間に戻った瞬間に、夢から覚めたという感じを伴うはずですが、彼の魔法にかかった人々は、ついに最後まで、そういう感じを抱かないのです。

原文ママ

まさに谷﨑にとっての小説とは、催眠と思わせないレベルの、覚めない夢であり、魔法でした。それゆえに、彼の作品は、長さを必要とし、些細な言葉で崩れない、強烈な勢いを持つものでした。その勢いが、出来不出来はあるものの、彼を晩年までの旺盛な作品制作に導いたのでしょう。


インドの魔術という、エキゾチックだけど、作者ですらよく分からない存在。それを通すことで、日本文学史を代表する二人の文豪が、対照的な自分自身の、文学観、人生観を吐露することになりました。

それは、二人の小説の魔術師が、同じ題材でみせた、魅力的な共演でもありました。

同じ人物すら全く別ものに変えて、自分の世界に引き入れてしまう二人の、強烈な魔術。二つの短編を読み比べることで、コインの表と裏となって妖しく響き合う、この二人の文学世界の一端を、是非味わっていただければと思います。


今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイでまたお会いしましょう。


こちらでは、文学・音楽・絵画・映画といった芸術に関するエッセイや批評、創作を、日々更新しています。過去の記事は、各マガジンからご覧いただけます。

楽しんでいただけましたら、スキ及びフォローをしていただけますと幸いです。大変励みになります。




この記事が参加している募集

読書感想文

私のイチオシ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?