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「イメージと文化」ドゥルーズ著作「シネマ」の周辺を考える

ドゥルーズ著作「シネマ」の周辺(ベルクソン「物質と記憶」の解釈への覚書)


1)ドゥルーズと映画

”ベルクソンの基礎概念”と映画の現象論の関わりだ。
ベルクソンの「イマージュのない思考」を挙げてドゥルーズは語った。
(パリ第8大学での講義から)
*イマージュのない思考:それは「差異と反復」
ドゥルーズの思考は、イマージュ(映像)思考がない。
書物は根強い信仰によるように、世界のイマージュではない。
それは書物と世界は、非平行的発達がある。

2)イマージュ=運動

”イマージュのない思考”とは:絶えざる生成と運動の場としての思考を意味する。
それは、ベルクソンの「物質と記憶」の第1章での、
物質=映像=運動の三位一体性。その視点は、ベルクソン的だ。
世界の生産と消費を繰り返しの作用
「物質=映像=運動」

イマージュ=運動

Fig.世界の生産と消費を繰り返しの作用(artoday)

3)ベルクソンと映画

1985年頃、リュミエール兄弟から映画は、19-20世紀の人々が驚いたのは、その動きだろう。
パリの地下のサロン(1987年)では、「ラ・シオタ駅への列車の到着」の上映に、近づく鉄の塊である蒸気機関車に、逃げ惑ったと言われる。

ベルクソンの「物質と記憶」第4章 にある「思考メカニズムと機械的錯覚」
「創造的進化」近代化学の方法の形而上学
・映画時代の形而上学の樹立を目指す。ベルクソン
・「瞬間」が「運動」を切断する断面であるならば、それは、動的断面だろう。時間の形而上学への侵攻する流れだ。
 *フィルムの1コマ1コマの断面(24/sec)、その動的断面は、20世紀の視覚装置が、その模索を提供する。
(註)*イマージュ=運動なのだ。

4)運動・機械・鎖列(chain)

映画とは、イマージュ=運動の機械的鎖列である。-ドゥルーズ

「鎖列=組込」≒「機械的」(≒ 近似値)
(註)配置(agencement) ≒ 機械的(mécanique)
これらが、ドゥルーズの的「機械」へ、連れ戻す。
ここで、ベルクソンのテクストが、突如として、ドゥルーズ的色彩を帯びる事になる。

(例)ゴダール(Jean-Luc Godard, 1930- /フランスの映画監督)を考える
イマージュ(比喩)=運動
「矢を射る者でも、矢を突き刺される者でもなく、矢、そのものであろうとつづけた・・」
気狂いピエロ(きぐるい):ゴダールの視線は、動体の軌跡(かたち)ではなく、それは、永遠の現在だろう。

「気狂いピエロ」Pierrot Le Fou(1965仏・伊)-Trailer

(註)「イメージと文化」を考えるための「シネマ」ジル・ドゥルーズの解釈の補充です。いずれ、「イメージと文化」の視点から、より分かりやすいドゥルーズの「シネマ1-2」の解釈も、掲載致します。

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