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【人物伝】浅井一彦 ~ゲルマニウムに魅入られた、希代の研究者~前編

東京都狛江市。
閑静な住宅街の一角、今やマンションが建つその場所にはかつて、とある研究所があった。

——浅井ゲルマニウム研究所。

1996年に東京都の道路区画整備に伴い立ち退きを余儀なくされるまで、幾人もの研究者たちが、まさに太陽のごとき情熱で研究に打ち込んでいた。
その中心として欠かせない人物がいる。

その人こそ、「浅井一彦」である。

今回は、ゲルマニウムに魅せられ、戦後、多くの人を救わんと奔走した希代の研究者を取り上げたい。

◆◆◆

道はずれて、石炭と出会う。

1908年3月31日、浅井は満州、大連で生まれた。

10歳まで大連で過ごした後、帰国。
24歳で東京大学(当時の東京帝国大学)法学部を卒業した。
当初は外交官を目指していたが、試験合格者名簿への名前の記載漏れにより、合格がうやむやになってしまう。当時は官報の合格者名簿が大きな意味を持っていたため、これを覆すことは不可能だった。

外交官としての未来が絶たれた浅井は、再度の受験を諦め、土木事業を行う「大倉組」に入社。その後、ドイツ駐在員としてベルリンに派遣されることとなる。秘書を務めていたドイツ人女性と結婚し、4人の子供に恵まれた。

しかし、当時の生活は決して順風満帆なものではなかったと、浅井は自身の著書の中で語っている。

ベルリンの大使館で働く大学時代の友人たち。消えてしまった夢の先で働く彼らを目の当たりにし、浅井は極度の神経衰弱に陥った。

自らの向かう場所が見えてこないまま、あてもなく船を漕ぎ続ける毎日。
ある日、そんな浅井を見かねたドイツの友人が、浅井を炭鉱見学に誘った。

この経験が浅井のその後の運命を大きく変えることになる。

——革製のヘルメットをかぶり、もうもうとたちこめる炭塵の中で、黒く汚れた顔が、汗にまみれ、安全灯の光でギラギラと照らし出される。必死の形相でピックハンマーを握りしめて、炭層に挑んでいる姿が、からだにしみ込むようなそこひびきと、一種異様なにおいとともに、灰色のもやの中から摸糊として浮かび出てくる情景は、まさに人間が自然と一体になってうごめいているとしかとれないのだ。

(「ゲルマニウムと私」より)

炭鉱での光景にひどく感銘を受けた浅井は、その後、石炭の勉学に没頭。
法学部出身でありながらベルリン工科大学(当時のシャロッテンブルグ工科大学)に入学し、鉱山冶金を修めた。

◆◆◆

戦争に翻弄された半生

1941年6月。
独ソ不可侵条約を無視したヒトラーがソ連侵攻を開始。モスクワ攻略に失敗すると、戦火はドイツ国内にも及ぶようになる。

浅井は家族を疎開させ、一人ベルリンに残って学業を完遂させた。

その最中、ベルリン陥落の数カ月前のことだ。
いよいよ市街地への空襲が激しくなり、浅井も大規模な市街地戦に巻き込まれることとなる。
浅井は自らも住んでいたアパートの、地下壕に避難していた多くの人の命を救った。アパートの屋根に上り、落ちてくる焼夷弾を命からがら鎮火し続けたという。
その雄姿を称えられ、ヒトラーからの感謝状と、当時ドイツ軍人にとっての最高の栄誉だったという剣付鷲十字章を下賜された。

1945年。
終戦を迎えた日本で、浅井は石炭の研究を続ける決意をした。
というのも、当時の産業復興にはエネルギー源である「石炭」が重要だったためである。

浅井は、目黒のとある会社の一室に研究所を借り受け、数人の有志とともに歩み始めた。

―—これが、浅井ゲルマニウム研究所の前身。「石炭綜合研究所」の始まりである。

◆◆◆

石炭とゲルマニウム

浅井らはまず、日本で採れる石炭の性質解明から取り掛かった。

どの地質時代の炭層から取れる石炭なのか?どんな性質を持った石炭なのか……果ては石炭中に含まれている成分にまで調査が及んだ。

工業に欠かせない鉄。
その製造に必要である「コークス」は、石炭を乾留(蒸し焼き)することで得られる。しかし当時は、日本の石炭からはコークスができないとされていた。

この通説を浅井らはひっくり返した。

調査の結果、日本の石炭でも立派なコークスができるという結論が導き出されたのである。

さらに浅井らは、炭鉱で使用する枕木の代わりに伸縮自在、組み立て式の鉄柱を開発。これにより従来は使い捨てだった坑木の使用削減に大きく貢献した。この功績をたたえられ、浅井は1957年に紫綬褒章を授与された。

また構成成分の研究によって、日本国内の石炭には、ゲルマニウムが多く含まれていることが発見された。
当時は電子基板などを扱う「エレクトロニクス」の興りから、世界的に半導体原料として、ゲルマニウムの需要が高まった。
まもなく浅井らは、石炭ガスの廃液の中からゲルマニウムを抽出することに成功。当時需要が高まっていた半導体市場に乗りだした。

しかし、これがうまくいかなかった。
安価な海外製の流入により、浅井らのゲルマニウムはコスト面で世界的な競争に敗れてしまったのである。

研究は暗礁に乗り上げた。
このまま、ゲルマニウム事業を諦めなくてはならないのか。

浅井は、ゲルマニウムの活用法を模索し、日夜思考を巡らせた。

◆◆◆ 後編に続く(7月18日更新予定)