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【推し作家】須賀敦子の道程

私が須賀敦子の本を最初に手に取ったきっかけが何だったのか思い出せませんが、おそらく1990年代後半ごろだったと思います。
SEとして働きだして数年、2000年を目前に就職氷河期やY2K対応が問題になっていた時代でした。

須賀敦子は彗星のように急に現れ、知性と教養溢れる著作を出し、そしてパッと去ってしまいました。
一作目か二作目を読んだときにはすでに、須賀敦子が他界したことを知ったので、きら星に去られた置いてけぼり感とともに、静かな衝撃をもって読んだことを覚えています。

いずれの著作も、
戦前の関西の実業家の娘という育ちの良さからくるとても美しい日本語と、
芯にあるクリスチャンとしての信仰心と、
長い海外生活でのアバンギャルド的な思想と、
それらが相まって、とても魅力的なエッセイばかりです。

コルシア書店の仲間たち

ミラノの小さな書店での夫や友人との思い出を書き綴っています。

その中で、ぽつぽつと須賀敦子がミラノの前はローマにいたことや、戦後すぐにヨーロッパに渡ったらしいことがわかります。

この都心の小さな本屋と、やがて結婚して住むことになったムジェッロ街六番の家を軸にして、私のミラノは、狭く、やや長く、臆病に広がっていった。パイの一切れみたいなこの小さな空間を、あっちへ行ったり、こっちへ行ったり、自分のミラノはそれだけしかなかったような気もする

もう、コルシア書店にたどり着くまでにどんな人生を歩んできたのか俄然興味がわきます。
そして、コルシア書店でコミューンのような共同体を理想とする活動に関わるきっかけが何なのか、その手掛かりを知りたくて、次々にその後の作品をコンプリートすることになるでしょう。

ヴェネチアの宿

須賀敦子の父の話を中心に、日本で女学生だったころの話や家族の思い出が語られます。

このお父さんというのが、「家業に専念させるため」という理由で祖母が外遊させることにし、戦前にヨーロッパを一年ほどかけて周遊した人物。(余程、家業の跡継ぎとしてしっかりさせたかったのでしょう。)
贅沢好きで、ひいてはほかにも家庭をもち、と谷崎潤一郎の「細雪」にでも出てきそうなぼんぼん育ち。
戦時下でも、家では「パパ」「ママ」と呼ぶハイカラさや、娘たちを私学のカトリック学校で教育を受けさせるというリベラルなところがあるかと思いきや、子供のころから本好きの敦子に、女に教育は不要、と大学進学など否定していたお父さんですが、結局大学どころか留学してヨーロッパに移住してしまう娘をどこかで誇りに思っていたようにも思います。

ヨーロッパに行ったら、オリエント・エクスプレスに乗れよ。

「ヴェネチアの宿」の最後のエピソードは、父の危篤の報を受けて日本に帰る敦子が、父の思い出のオリエント・エクスプレスのコーヒーカップを持ちかえる話でじーんと沁みます。

オリエント・エクスプレスには、自分が若いときそれに乗って(略)深い思いがこめられていて、その記憶が跡取りの男子というだけのことで祖父ゆずりの会社の経営に不本意ながら参加させられ、戦争で軍部に協力を強いられたり、戦後の混乱の大波を乗り越え乗り越えしてようやく仕事に自信を持つようになった父の晩年を、どこかで支えていたに違いない。

ユルスナールの靴

冒頭は、私の中では”春はあけぼの”級にそらんじられる名文です。

きっちり足に合った靴さえあれば、じぶんはどこまでも歩いていけるはずだ。そう心のどこかで思いつづけ、完璧な靴に出会わなかった不幸をかこちながら、私はこれまで生きてきたような気がする。行きたいところ、行くべきところぜんぶに自分が行ってないのは、あるいは行くのをあきらめたのは、すべてじぶんの足にぴったりな靴をもたなかったせいなのだ、と。

「ユルスナールの靴」は「ハドリアヌス帝の回想」を著したマルグリット・ユルスナールの評伝に交錯するように、須賀敦子自身の若き日からの来し方が語られます。
日本とヨーロッパの間で、ノマド感を抱えながら、行くべき道を模索し続けた姿が浮かび上がります。

遠い朝の本たち

これは、須賀敦子が亡くなった年に刊行されています。

この中では、須賀敦子が読んできた本たちの思い出が語られます。
そこに出てくる本がまた、私の好きなものも含まれていてうれしくなります。
例えば、
アン・モロウ・リンドバーグ「海からの贈り物」、
サンテグジュペリの「夜間飛行」「人間の大地」「戦う操縦士」、
上田敏の訳した詩「山のあなた」「燕の歌」。

上田敏訳の詩は中学の教科書に出ていて、カール・ブッセではなくカアル・ブッセという表記や、山のかなたではなく山のあなた、という表現や”山のあなたの空遠く、幸い住むと人のいう”というするするリズム感ある流れが好きでした。今でも教科書に取り上げられているのでしょうか。
素晴らしい文章は長く読み継がれてほしいですね。

トリエステの坂道

イタリアでの夫とのつましい暮らしや、夫の家族、友人の思い出が語られます。
早くに病気でなくなった夫にまつわることを書き記しておくことで、一種の供養と、自身の終い支度でもあったのではと今なら思います。

地図のない道

須賀敦子は、夫と死別後、ミラノ暮らしを終えて日本に戻ってからも、研究者としてたびたびイタリアを訪れています。
ヴェネツィアにあるゲットを訪ねて、ユダヤ人や宗教的な背景を考察するかと思えば、ヴェネツィアの水路にまたがる多くの橋から、祖母の地、水都大阪での思い出が「心中天の網島」や「曾根崎心中」とともによみがえるのです。

婚礼やいうのに、私は荷物もって、人力車に乗ったおばさんの後ろ歩いて。道頓堀から高麗橋まで。婚礼やいうのに・・・。

祖母の最後の日々に聞いた言葉を思いだし、子供のころに尋ねる程度の土地勘しかなかった大阪の地も改めて歩いたようです。御堂筋、天満橋、土佐堀川、曾根崎新地、、、。
須賀敦子が大阪にもゆかりがあることも、なんだか急に親近感が沸いてうれしいものです。

最後の章では、ヴェネツィアの”治る見込みのない者たちの病院”というものが出てきて、かつて、娼婦が梅毒にかかって最後を過ごしたところという話がでてきます。
そんな悲惨な娼婦たちが、収容されていた建物の対岸に教会が見えることで、やがて訪れる救いの確信を持てたのでは、と慰められるのです。

亡くなったあとも、関連本はいくつか出ていますが、もう新しい作品が読めないことが本当に残念でなりません。
それでも、時代に色あせない須賀敦子の文章を折々に読み返しては、自分の内に、ほのかな灯りをぽっとともすような読書体験をできることは何物にも代えがたいです。

須賀敦子も読んでいたサンテグジュペリの作品については、こちらにも書きました。


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