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あの日ひとりで食べた麻婆茄子が今の僕をつくっている

僕は料理が好きだ。盛り付けの綺麗な「映える」レシピは苦手だけど、豚汁とかキムチチゲとか水炊きとか、ワシワシと食べられる料理が得意だ。

昔から夕方になると母親の隣でご飯の支度を手伝い、誕生日には包丁を買ってもらうような子どもだった。最近では肉の塊を焼いたり、友達を集めて居酒屋を開く遊びにハマっている。面と向かって尋ねたことはないけど、誰も嫌だと言わないから多分美味しいのだろう。

そんな僕も、ひとりで食卓を切り盛りする自炊生活がはじめから上手にできたわけではない。今日は僕と料理のこれまでについて、ターニングポイントとなった麻婆茄子の話をしたい。

18歳、はじめて借りた部屋

2009年3月末。受験を終えた僕は、当初の予定から大きく外れて東京に進学することになった。

マイナーな受験制度を使って運良く合格したはいいものの、すでに入学式まで半月を切っていた。オープンキャンパスにすら行ってなかったので、大学がどこにあるかも分からない。大急ぎで調べると、あたかも東京にありそうな名前なのにキャンパスは神奈川の奥地にあるらしい。やられたと思った。

とにもかくにも決まったからには住む家を探さねばならない。母親が見つけてきた学生アパートを扱う会社にすべて委ねることにし、合格通知の2日後に二人で現地に向かった。不動産屋のある街に降り立つやいなや、二人ともお腹を空かせていたので、「美味そうな中華料理屋だ!」と日高屋に駆け込んで作戦会議をした。

母親は、僕が自転車に鍵をかけず5回ほど盗まれたことを知っているので、オートロックにしろと言う。僕は修学旅行でホテルのユニットバスを水没させたことを思い出し、バストイレは別がいいと主張した。できれば美人な管理人さんもいて欲しかったが口をつぐんだ。

不動産屋に要望を伝えると「このタイミングでその希望を叶えるのは…」と渋い顔になり、少し離れた街にある物件を紹介された。タイムリミットも迫り、もうどこでもいいですと告げると、さっそく電車に乗って内覧へ向かった。着いたのは都会なのに空がとても広く、線路に沿って空気がどこまでも突き抜けているような街。駅前には繁華街もファッションビルもなく、代わりに農協でホウレン草の苗を売っていた。

案内されたアパートは線路沿いを10分ほど歩いた高台の上にあった。オートロックの操作方法を見ていると、早速ゴキブリが目の前をよぎったことは忘れられない。空き部屋が3階でよかった。1K6畳の部屋はお世辞にも広いとは言えなかったが、ベランダから住宅街や線路が見渡せる景色が気に入ったので即決した。

ひとりで食べた麻婆茄子

すぐに契約の段取りを両親に進めてもらい、最初の上京からわずか1週間というスピードではじまった新生活。初日は家族全員が来て荷解きを手伝ってくれたり、量販店へ家電家具を買いに行ったりした。しかし夕方に駅で別れてから、「今日の晩ごはんどうすりゃいいんだ?」と、一人になったことをようやく実感した。

チェーンの飲食店が駅前にないような街だったので、とりあえず不動産屋に教わったスーパーへ向かう。なんとなく麻婆茄子が食べたくなり、茄子やひき肉を買って帰ると、僕は愕然とした。まだガスが通っていないし、調味料もなにもないのだ。諦めてコンビニで何か買えば良いものを、意固地だった僕は家電屋に戻って深鍋のホットプレートを探し出し、同じスーパーで麻婆茄子の素を買って帰った。

二度目の帰宅のころには部屋がすでに真っ暗になっており、リビングの電気のスイッチを入れた。するとここでまた愕然とした。カーテンがないのだ。「夜に電気をつけるときは、外から中が見えないようカーテンを閉めること」と当然のように教わってきた僕は、この状況がとても恐ろしかった。しかも住宅街という家が密集した場所で、中が丸見えだなんて、田舎に帰った親が心配すると思いすぐに電気を消した。

妥協してオレンジの豆電球だけつけて、リビングの絨毯にまな板を置いて野菜を切った。なぜそんな、みすぼらしい様になったのか。キッチンの電球も買ってないし、机は家具屋から届いていなかったからだ。

手に入れたばかりのホットプレートをコンセントに繋ぎ、野菜と麻婆茄子の素を入れる。床に膝をつきながら、まだ焦げ目のついていない竹べらで具材をかき混ぜる。ジュー、という音が、僕しかいない部屋に響く。実家から持ってきたお気に入りの平皿に盛り付けて、とろっとした茄子を割り箸で持ち上げると、たまらず僕は声を上げて泣いた。

帰ったら自動的にご飯が出てくる日々は終わったこと、ガスから火が出たり醤油があったりするのは当たり前ではないこと、それらはぜんぶ両親のおかげであったこと。今まで知らなかったことが口の中いっぱいに広がって、しっかり噛み締めてから飲み込んだ。茄子にあまり火が通っていなくて、ちょっぴり冷たかった。

自分の料理がみんなの青春に

翌日にはガスが開栓して本格的な自炊生活を始めたが、料理を続けることの難しさにぶつかっていく。あれもこれも作りたいと一度にたくさん野菜を買っても、使いきれずに腐らせることを知った。レシピは決めてからスーパーに行くのではなく、その日安いものを買ってから考えることを学んだ。授業が終わって疲れていても、自分で毎日ご飯を用意しなければいけない。早々にホームシックになった。

それでもめげずに買い物のコツを習得し、作りおきや冷凍でやり繰りする術を身に着けていると、いつのまにか大学で料理上手のキャラを確立していた。入学から2ヶ月ぐらい経つと、我が家に友達が夜な夜な遊びに来るようになり、一人で食事をとることが減った。キッチンに立つ友達から、東京や九州など色んな家庭の味や、洗い物の段取りを教わった。

夏には学園祭の模擬店で出すためのオリジナルスイーツをみんなで試食したり、実家から届いた野菜を使って郷土料理をふるまったりした。酒を飲むようになってから、授業に遅れがちになったのは言うまでもない。我が家にたまっていた男たちに酒のつまみを作って出し、朝まで飲み明かした翌日はみんなで青い顔をして大学に行った。

哲学とか世界平和には何も関係ない日々だったけど、僕たちにとって間違いなく青春だった。自分のためにしていた自炊が、いつの間にか「みんなで楽しむための料理」という新しい価値を生み出していたのだ。

得意がうまれ、出逢いができた

その後何度か引っ越しを経て、3口のコンロや大きな食器棚のある部屋にたどり着くことになる。レシピの幅がぐんと広がり、高い食材で贅沢することも増えた。味付けにおいて大切なことが、白米よりもアルコールとの相性に変わったのがいつかは覚えていない。

恋人に手料理を振る舞うときは、なるべくお洒落な皿に盛り付けるようになった。大切な人が美味しいと言ってくれる喜びを知った。あの狭いリビングでひとり寂しく始めたことが、僕に「得意」をつくり、たくさんの出逢いを導いてくれたのだ。

あれから僕は、ずいぶんと料理が上手くなった。だけど10年前にうす暗い部屋でひとりで食べた、冷たい麻婆茄子の味を忘れることはないだろう。

#はじめて借りたあの部屋

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