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歪んだパール

「生物が死ぬ時、原子が、パールのネックレスの糸が切れるように、ぱらぱらと、離れてしまうのですって。」

と書かれているのを見た瞬間、頭の中に、ネックレスの糸が切れてぱらぱらとこぼれ散るパールのつぶつぶが浮かんだ。
床に落ちるときの、ぱちぱちという音さえ聴こえてくるような気がした。

あるものは、テーブルの下に散り、あるものはキャビネットの奥深く潜り込む。
近くにあっても、それぞれは、もうけして繋がることはなくて、たぶん、触れ合うこともない。

それが素粒子レベルで起こるという。
悪くない、と思った。

それは、単に生物が命を失い、ただの物体になるということだけではなくて、この世で築いてきた繋がりのすべて、望んで得られたものも、望まずに関わってしまったことも全部、瞬時にほどけ散って、ばらばらになってしまう。
私を私たらしめているすべての要素が、落ちたパールの粒となり、ベッドの下に潜り込んだり、はじけた拍子に窓から飛び出して転がっていく。

埃や土にまみれたそれらのひとつを、誰かが見つけたとしても、どの粒とどの粒が隣り合っていたか、元々は何を成していたものかさえわからなくなってしまう。
悪くない。

冒頭の写真は、レンブラントの「聖家族」だが、宗教画っぽくないところが気に入っている。
アムステルダム国立美術館所蔵。

初めて行った美術館は、たぶん上野の国立西洋美術館の常設展。
中学生のとき、一人で行った。
旅と同様、おしゃべりに夢中になりながら大事なものを見逃してしまいそうで惜しいから、親しい友人とさえ同行しない。
美術でも音楽でも映画でも、自分がどういうものが好きで、どういうものが苦手なのか、感性と価値観を一人でゆっくりと確認していくのは楽しい。

私が子供の頃の日本の美術教育や文化流布においては、西洋美術といったら印象派みたいな傾向が強くて、企画展もその流れに沿っていた気がする。
ゴッホとかゴーギャンとかマネとかモネとか。
あとはピカソやミロやダリの時代を経て現代美術に飛んでしまう。

小学生の頃だったか、新聞の定期購読を契約すると月に1回くらい、有名な絵画のシート(ファイルすると画集っぽくなる?)をくれたけれど、西洋絵画はほとんど印象派で、日本絵画は浮世絵だった。
私はこの一律感というか、一面感になんとはなしに嫌悪を抱き、これ以外のものを知りたい欲求が強まった。

いまならネットで検索すれば済むけれど、当時はそうはいかないので、図書館で探すも、画集はあまりない。
大型書店の美術書のコーナーで立ち読みをするのが関の山で、気に入ったとしても買えるはずもない。

古本屋で、最初に見つけた印象派以外の西洋絵画のシート(これも集めれば画集っぽくなる)が、ラ・トゥールとレンブラントだった。
ラトゥールは、「受胎告知」の記事にいただいたコメント(byいしいさん)にあるマグダラのマリアを描いたもので、当時のタイトルは「夜伽のマドレーヌ」となっていた。
これについては、別記事で言及する予定。
レンブラントは、もちろん「夜警」だった。

私は、こういうのが好きなんだと直感した。
その後、次々と「私が好きな感じ」がわかってくる。
ラ・トゥール、レンブラント、フェルメール、ブリューゲル、カラバッジォ、リベラ、グエルチーノ、ベラスケス、スルバラン・・・

「キリストの埋葬」カラバッジォ(ヴァチカン美術館)
「画家のアトリエ」フェルメール(ウィーン美術史美術館)
「聖フランチェスコ」スルバラン(ロンドンナショナルギャラリー)

そうか、私は「バロック」が好きなんだ。
バロックの語源は、歪んだ真珠や宝石の形barrocoからという説がある。
そうか。
私を成しているパールは歪んでいるんだ。
妙な納得感がある。
そして、その納得感が、なんだか愉快なのだ。

音楽もバロックが好き。
バッハは言うまでもないが、パッヘルベルやヴィヴァルディ。
ヴィヴァルディは四季の「春」が取り上げられることが多いが、私は「冬」が一番好き。
特に第3楽章。


読んでいただきありがとうございますm(__)m