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あの日

2011年3月11日 私は出勤していた。
すこしまえから風邪気味で、休もうかどうしようか迷ったが、どうしてもやらなければならない処理があったのでしぶしぶ出たわけだ。
このときの通勤時間は約1時間半。

実家の母も兄もまずまず元気だったが、父は療養型の病棟に入院していた。
私はまだ結婚しており、会社の帰りや休みごとに姑の介護と実父の見舞いと母の代わりに実家の家事に通っていた。

金曜日だったので、本当は会社の帰りに実家に行く予定だったが、体調はどんどん悪くなる。
母に連絡すると来なくて大丈夫(大丈夫じゃなくてもそう言うのだが)ということなので、風邪をうつしてもいけないから、最低限の業務だけ片づけて午前中で早退した。

会社近くのクリニックに寄って、風邪薬を処方してもらう。
熱はすでに38℃を超えていたが、当時はコロナのコの字も知らないので、いまほどの恐怖はない。

1時間電車に乗って、乗り換えるためにターミナル駅に着いた。
そうだ、降りたついでにここで何かを食べて薬を飲もう、と思いつく。

大型スーパーのフードコートでうどんを食べる。
薬をのんでやれやれ。
これで帰ってすぐ寝られる。

スーパーから、デパートの売り場を抜けて歩く。
1階は婦人雑貨と貴金属売り場。
宝石の装飾品たちが、ガラスケースの中で光を放っていた。
頭上にはクリスタル?っぽいシャンデリアがある。

それらがカチカチカチとかすかな音を立てた。
この違和感は、いまテレビで耳にする緊急地震速報より、私に警戒感を与えた。
カチカチがすこし大きくなった瞬間に、もう立っていられなくなった。
たまたま隣を歩いていた若い女性と思わず手を握り合い、空いた手で、ショーケースにつかまって体を支えた。
古いケータイがどんな音で警告したか、まったく記憶にない。
それよりガラスが触れ合うカチカチに私は震えあがっていた。

いまも、食器が触れ合うカチカチがトラウマ。
家では、なるべくその音を立てないように洗ったり配膳している。

デパートの従業員が「この建物は安全です!外に出ないでください!」と連呼しながら誘導していたので、客たちが出口に向かってパニックになるということはなかった。

揺れが収まっても、手を握り合った女性とはしばらく一緒に留まって誘導を待った。
その人も一人だったから、きっと心細かったのだと思う。
発災直後、ネットはまだ繋がっていて、検索したら東北で「震度7」だということがわかった。
各地の細かい震度は、この時点ではわからない。

母に電話をかけたが出ない。
兄と夫と姑にメールをしたが返信もない。
そのうち、ケータイはネットも通話も繋がらなくなった。

駅のコンコースは大混雑で、駅員が何かを叫んでいるが、運行がどうなっているのかまったくわからない。
しかし、もっと小さな地震でも電車は止まって線路などの点検をするので、その日のうちに運行再開するとは思えなかった。

念のため、別の私鉄路線の駅にも行ってみようとして長い跨線橋を渡っているときに余震が起こった。
自分が立っている橋が、うねって波打っていた。
思わずしゃがんだ。
これは、私鉄のほうも無理だ。
両の駅は、行き場を失って佇む人たちであふれていたが、私は幸いにも家の近くまで帰ってきている。
あとは3つばかりの駅の距離だ。
決断は早い。

薬が効いてきたかわからないが、風邪を引いていたことも吹っ飛ぶ恐怖と緊張感の中で歩き始めた。
本当は、こういうとき安全なところに留まるべしと言われている。
余震を考えると外を歩いて帰宅するのは望ましくない。
でも。
このときは、家に帰ることしか頭になかった。

初めての道だが、ほかに歩いている人もいたし、なるべく線路に沿って進んだ。
途中、コンビニに寄ってお茶のペットボトルを買った。
すでに在庫は残り僅かで、近所の住民なのか大勢がレジに並んでいた。
私はまだテレビを見ていなかったが、震源地だけではなくこのあたりでも大ごとになっているのかもしれないと思った。

道沿いの家は屋根瓦が落ちたり、ブロック塀が倒れたりしていた。
通りすがりにどこかの商店のつけているラジオが「津波が」と言っているのが聞こえて、初めて「そうか、津波が来るんだ」と思った。
実際はこのときはもう来ていて大変なことになっていたのだが、映像を見ていないからピンと来ない。

普段なら1時間足らずで着くはずだったが、熱でふらふらしていたのもあるし、落ちたブロックを避けたり、地面が液状化していたり、余震のたびに立ち止まったりしていたので倍くらいかかった。

玄関ドアを開けると、廊下を塞ぐように「ヘルメス」の胸像が転がっていた。
倒れた家具はなかったが、食器棚と飾り棚の中身はあらかた飛び出して、そのほとんどが欠けるか割れていた。
冷蔵庫が揺れで動いて扉が壁で押さえられるかたちになったせいで開かなかったのはラッキーだった。
最上階なので、発表される震度よりいつも1段階大きく感じられる。
下のほうの階の人は、被害が少なかったようだ。

デパートの中で、知らない人とはいえ誰かと手を取り合うことができたのは、ものすごくありがたいことだと実感した。
ストッパーをかけてある冷蔵庫が動くほどの揺れの中で、落ちて砕ける食器の音を聞きながら一人で過ごしたのかと想像すると、とてつもなく恐ろしい。

さらにありがたいことに電気もついた。
水も出た。
部屋は足の踏み場もないが、電話以外のインフラが正常なことは私を安堵させた。
そして、テレビをつけて津波の映像を見た。

語るのもおこがましい気がする。
たかがこれくらいのことで恐れおののいていること自体が、家族や家や生業を失ったかたに申し訳ない。
けれども。

これはこれで、私の人生の中の大きなできごとだったことは確かで、ここから得る反省も後悔も教訓もあるので、あえて書き残しておく。

若い頃の夢は、ひとつは旅人で、もうひとつは喫茶店をやることだった。
陶磁器が好きで、旅先では窯元を回っては気に入った珈琲カップを1客ずつ買い集めた。
それらのほとんどは「震災ゴミ」となった。

あれから13年になるが、私は1客のカップも買っていない。
割れなかった食器は、どういうわけか気に入っていないもらいものや100均のものである。
割れた食器は、すべて100均で補充した。

誰かの役に立つことはひとつも書けないが、未読のかたには、これだけは読んでほしいと思っている。
「逃げなかった人々」

おてんとうさまは見ていない。
神さまはいるかいないか知らないが、誰かの行いの善悪を判断して、未来を与えたり打ち切ったりしているのではない。

その人でなければならなかった理由など、ない。
私でもよかった。
あなたかもしれなかった。

次は、いつ、誰がどうなるか、わかる者はいない。
あのときは、たまたま、誰かが、「私の代わりに」逝ってくれたのかもしれない。

人間の力では、太刀打ちできないこともある。
けれど。

人でなければできないこともある。
すべきことも、たくさん、ある。

「閖上」を
「ゆりあげ」と
  読むと知った
  あの日の
  哀しみ


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