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まさかあんにゃの物語

元日の夜、無理やり口に入れたカニの残りをようやく食べた。
6日前には味がしなかったけれど、今夜は「美味しい」と思った。
そう感じる自分に憤りと安堵の両方を覚える。

故郷の雪は激しさを増している。
誰かの生死を分かつ夜になるやもしれぬ。
しかし、私はテレビを見ながら、その故郷から取り寄せたカニに舌鼓を打っている。
自分がとてつもなく贅沢で、分不相応であると、画面の中の雪に糾弾されているかのよう。

けれど、現実に私の味覚が満足したことは間違いない。
そうなのよ。
愛する家族が死んでも、葬式饅頭ほおばって、手続きもろもろやっていくのよ。
私は3つの葬式を出している。
人の死に対して、初めはまず「ショック」が来る。
それでその自覚なしにパニックを起こしているのだと思う。
本格的な悲しみは納骨が終わった後に、しみじみとやってきた。
人生ってそういうもの。
人間は、たぶんそれに耐えられるようにできている。

そのためにやった二つのこと。
ひとつは、防災用品の不足を補ったこと。
これは、自分が生き延びる前提の作業。
この前提を確認したことで心が落ち着いた。

そしてもうひとつは、たぶん「物語の力」。

去年1年大河ドラマを見なかった私には、大河ドラマの渇望感が大きかった。
正月に大地震が起こるなどと微塵も思っていなかったから、ずっと今日を心待ちにしていたのだった。

18時からのBSと20時からの地上波の2回見た。
平安時代という、まったくの別世界のドラマであったことも救いとなった。

2019年に行ったときの写真

紫式部の幼少期など、きっと誰も知らない。
そもそも子役から始まるドラマは苦手なのだが、未知さゆえにフィクションにはまり込むことができた。
もともと、平安時代が好きなのもある。
合戦でない戦い(謀略とか心理戦)を好む。

今日3個目の記事だが、忘れないうちに感じたことを書いておく。

まひろ(紫式部)と三郎(藤原道長)の出会いは、いかにもという感じで、やや少女漫画仕立てだが、最近そういうものにも触れていなかったので、想像していたのよりは抵抗がなかった。

漢文の引用で、馬鹿の語源を「(鹿を馬と偽るような)偽りを言う者を重用する愚かな者」としたセリフは、ちょっと今の政治を風刺したようなニュアンスもあり、こういう何気ない毒が好き。

昔は、清少納言に憧れていた。
「源氏物語」よりも「枕草子」。
しかし、今日の放送を見るに、少女期の紫式部もなかなかいい。
私は小賢しい子が好きなのだ。
このまま、吉高由里子にも、どこか斜に構えた、毒のある大人のまひろを演じてほしい。

これまで、定子や彰子に仕える女房だとわかっていても、彼女らの文学と歴史をからめて考えたことはあまりなかった。
栄華を極めた藤原一族の歴史とどうリンクしていくのか楽しみである。
物語のテンポもいいし、豊かなわりに自然な色彩加減だし、セリフも聞き取りやすい。

ドラマ中に登場人物の名前など字幕がいっさいないのも気に入っている。
解説ではなく、物語の中でわかっていくのがいい。

タイトルの「まさかあんにゃ」は、故郷とそれに隣接する地域の一部で「三男坊」を指す。
長男は「あんにゃ」で、後継ぎを呼ぶのに使う。
次男は「もしかあんにゃ」。
もしかしたら「あんにゃ」になるかもしれない。

そして、「まさかあんにゃ」は、まさか「あんにゃにはならんだろうが」というニュアンスを持つ三男坊。
藤原道長である。

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