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葉桜の候

子供の頃はよく本を読んだ。
すべて兄の本。
小学校2年生のときに、我が家は初めてテレビを手に入れたが、隣家の人が引っ越すにあたって「もうろくに映らないから要らない」と置いていったものだったから、ほとんどの映像は「砂」越しである。
それでも、不登校だった私の「お守り役」としてテレビと本は最大限に力を発揮した。

兄は父の連れ子だから、11歳も年上で、物心ついたときから私にとってすでに「大人」の部類だった。
彼の唯一の娯楽も読書であり、蔵書のほとんどが文庫本で、すべてが古本だった。
そして、子供の私には硬かったり小難しかったり、エロかったりした。

理解できない言葉を辞書で引き、その説明文がまたわからず、芋づる式に調べていき、もとの本を読むことより辞書を繰ることに夢中になった。
小説に出てくるだけでなく国語辞典の説明文にある漢字が読めなくて漢和辞典も引く。
新しく覚えた言葉を使ってみたかったが、その機会はないし、使ってみたとしても誰からも褒められない気がした。

いずれももうすでに我が家にはないが、思い出すと紙質もよくないし、字が滅法小さかった気がする。
近眼と老眼のダブルパンチに見舞われ中の私には、いま手にあっても読めまい。

当時、どんな本を読んでも、テレビドラマを見ても、学校では誰とも感想を共有できなかった。
いじめだけでなく、そのことも登校意欲を削いだと思う。
みんなが面白いと感じるものを、私はそう思えない。

ドロドロの愛憎話や緊張感あふれる心理劇、緻密に練り上げられた殺人トリックなどが好きだった。
アニメやバラエティが苦手なのは子供のころから。

どういうわけか、「ガハハ」と笑えたり「ほのぼの」するようなものに私は傷ついてしまうのだった。
小説にしろドラマにしろ、恋愛ものも苦手な部類に入る。

同年代で私が楽しいと思える本やドラマを見ている子供はいなかった。
勇気を出して登校して、さらなる勇気で話しかけても、私の放つ話題はみんなにとってきっと面白くないのだ。
愛読書は「国語辞典」と「時刻表」。

いまこうして勝手に感想を書き散らかす場所があり、共感してくださる人がいることのなんと嬉しいことか。
あの頃ネットがあったら、人生は違ったものになっていたかもしれない。

非出勤日で副業もないため、美容院に行った。
近所の中華料理屋には「冷やし中華始めました」の紙が貼られていた。
ソメイヨシノは葉桜となりつつあるが、八重の桜は蕾の濃い色が目を引く。
若い緑とのコントラストが眩しい。

美容院では、政権不支持に宗旨替えをした店主と盛り上がった。
今日の話題は「アベノミクスの負の遺産」と「共同親権」と「もしトラ」について。

帰りに寄った公園で、私よりすこし年かさの女性二人組に乞われて記念撮影のスマホのボタンを押した。
ついでに、LINEを始めたいと相談されたが、私は生憎やっていない。
イマドキ、LINEもインスタもやっていないと言うと驚かれることも多いけれど、noteやってるもんね(←どういう言い訳?)

お尋ねのスマホを見たらすでにアプリは入っていたので、こんな私でも対応できた。
へんなところ触って、へんなことにならなくて本当に良かった。

ドラマ好きは変わっていないけれど、いま本はほとんど読んでいない。
最後に読んだのは、2020年12月の交通事故の入院中というありさま。
コロナ禍の面会禁止のため誰にも頼めず、病床からAmazonでポチって注文した。

これもどういうわけか、私の場合「書く時期」と「読む時期」が交互にやってきて、同時進行ができない。
書いているときは読めないし、読んでいるときは書けない。
気力がないのだ。

なので、ドラマの感想はすぐに書けるのに「書評」みたいなものはほぼない。
両方を同時期にできる人が羨ましい。

実は葉桜も好き。
花見客はめっきり減って、静かに花色と緑の両方を同時に楽しめる名残りの春。


読んでいただきありがとうございますm(__)m