哲学家に向けて

※注意
 筆者は2018年3月に文学部哲学科の学部を卒業して以来、IT企業に就職したきり学術機関に携わっていないため、専門的な立場と知見から意見を述べることができないことを、予め御了承頂きたいです。
 また、論文でしたら出典を記すのが筋ですが、筆者が出典を把握していないことと、正当に客観性を担保しようとしていないので、エッセイ的な文章となっていることも御了承ください。後に述べますが、現代は理論の客観性を担保する場合、論文を引用して学会で査定を通すなど、公的機関の仕組みを介する必要があります。それを介さない文章は、主観的な意見に終始することを御注意ください。


はじめに

 本稿は、谷村省吾さんの『一物理学者が観た哲学』を読んで、哲学的思考パターンを持つ人に分かりやすく、科学の性質をお伝えできないかと思い、書いたものです。

 筆者は哲学科出身です。科学については、科学史・科学基礎論研究室出身の教授に、間接的に学んだ程度です。個人的に、科学の理解に必要だと考える要点をまとめますが、学術的に間違っている点がございましたら、ご指摘頂けると幸いです。

 本稿を書こうと思った動機としては、哲学的思考パターンを持った方の中に、科学の基礎を理解せず自己流の批判を展開してしまう人がいることをみて、常々問題意識を感じていたからです。同じ哲学科出身として理解できる部分もあるため、この場をもって試金石を投じさせていただくことにしました。

 哲学的思考の構造上、その立場からの科学批判が的外れに終わっているケースも多いと感じています。ここでは科学の性質だけでなく、哲学的思考の罠についてもお伝えできたらと思います。願わくば、哲学と科学の性質を理解した上で、さらなる学問の発展に貢献できれば幸いです。

 本稿の構成としては、まず科学性について説明します。その後、哲学的思考パターンがなぜおかしいのかの問題点を上げます。その流れで、なぜ哲学的思考パターンはなくならないのか、その理由を考察してみたいと思います。そして、自然科学で扱うには適さない、創発の領域について触れてみます。最後は、哲学の位置づけについて私見を述べて、終わりに向かいます。

 追記として一番最後に述べている部分があります。こちらは、エッセイの反応を元に、私がこのエッセイを書いた上での前提をまとめたものなので、そちらを先に読んで頂いたほうがよろしいかもしれません。


1.科学性について


1-1展開可能性

 科学性を担保する方法はいくつかあります。個人的に重要だと感じているポイントは、①展開可能性と②計量化です。

 まず①の展開可能性ですが、こちらは学問全般に言えます。これはざっくり言うと、「発展し続ける限り、前提は正しい」という考え方です。

 科学哲学に、「反証主義」と「パラダイムシフト論」があります。前者は「反証する余地がある理論のみ科学として認められる」という考え方で、後者は「ある時代を支配した科学思考の枠組みは覆される可能性がある」という考え方です。これらを検討すると、かなり言い過ぎている部分があり、科学を基礎づける考え方とは言えません。どちらかというとこれらは、似非科学を排除する目的で構想された印象です。

 この後、科学哲学者のラカトシュという人が、「リサーチプログラム論」とまとめていますが、これが一番しっくりくる考え方です。内容は、「科学の探求プログラムは、確証の高いコアとなる理論を基に、周辺の補助仮説を更新しながら進む」という考えです。

 科学は数多の仮説を立てながらも、そのほとんどは破棄されます。その仮説の中で、確証の高いものが核となり、さらにそこから仮説を立てて全体が発展していきます。現代物理学のコアは、相対性理論や量子論で、周辺の補助仮説が超弦理論やM理論に相当します。

 核はほとんど入れ替わらないものの、後の発見によって、全体を大きく組み替えなければならない場合もあります。ニュートン力学から相対性理論への移行が分かりやすい例です。ニュートン力学でもほとんどのことは説明ができ、それを活用して発展する技術も多くありました。ただ、それでうまく説明できない事態があったとき、その事態をうまく扱える理論があれば、大きく前提を組み替えて、科学は展開していくのです。

 リサーチプログラム論は科学哲学者が提唱したものですが、これは科学を基礎づける考え方というより、現状科学がどのようにあるかを改めてまとめたものと言えます。ですから、科学は哲学の基にして発展しているわけではありません。科学は科学の仕組みに則って発展します。


1-2計量化(測度化)

 展開可能性は学問全般にも言えますが、②の計量化は科学特有のもので、科学性を表すのに、分かりやすいと筆者は考えています。

 科学は実験・計測を重視します。これは理論を検証するためですが、その過程で、科学は世界を計量化して捉えます。算数の文章問題の答えには、「単位」がついた記憶があるのではないでしょうか。数学ではほとんどの場合、単位がつきません。

 この単位が、科学理論が現実と結びつく条件となっています。形式科学に類する数学は、単位がないため、現実とは関わらない抽象的な発展をします。一方、自然科学に類する物理学などは、物理世界に属する計測機器を用いることで、事象を数量化します。これにより、事象を数学で扱えるようにすると同時に、物理理論は現実と関わりを持ちます。

 常識からすると「何を当たり前のことを言っているのか」というポイントですが、そもそもを考えると、「人の思考が現実と一致すること」が自明である理由がありません。言葉で語ったことが、正しいことである保証がどこにあるのでしょうか。この言葉で語ったことを確証とするために、検事や科学者はエビデンスを取るわけです。

 哲学的思考パターンを持つ人に誤解がないよう伝えるなら、「エビデンスを取ることによって、確証を得たとする一連の約束事そのもの」が、現実と結びついています。ですから、「エビデンスが現実と結びついていることが正しいと言えるのはなぜか」とか、「約束事が現実と結びつくのはなぜか」と問うことはナンセンスです。この哲学的な問いそのものの問題点は後に詳しく述べますが、ひとまず言うなら、「こうであることを正当化する方法はないが、そうであることを疑うことの正当性もまたない」ということです。

 さらに加えて言うと、計量化によって世界がうまく説明することには、便宜上以上の理由があります。というのも、量子により、エネルギー量が定数的に決まっているので、あらゆる物理的な関係性も離散値を取ることになります。量子論はここ最近の理論なので、科学の発展史を見ると結果論に過ぎませんが、量子論が量的世界観を裏付けたのは注目すべきことだと私は思います。


2.哲学の問題点


2-1抽象度

 哲学の構造的な問題点もいくつかありますが、まずはその抽象度を話題にします。先程、科学は計量化することで現実にコミットすると説明しました。哲学はその現実への結びつき方をも疑えるため、その立場において現実と関わるすべがありません。

 理論が現実と関連するには、約束事が必要になります。法律なら、法システムの中に「人権」などを設定して、体系が物理世界に属する対象と結びつく仕組みを整えます。この約束事は、数学の公理のようにセットアップするものです。これは客観性を担保する上で重要な仕組みです。

 そして哲学には、そうした業界の常識となるスタート地点のセットアップがないため、客観性を担保することも、正しい理論を取捨することもできません。この仕組み上、哲学の論争が解決することもまたありません。

 補足として加えると、論理学は思考プロセスの客観性を支えますが、前提の正しさを保証するものではありません。そのため、思考プロセスが正しくとも、前提や結論が「事実として正しいか」は別問題です。例えば、「世界はAか-Aである」という命題は、形式的に正しいですが、それが現実を表現しているとは限りません。

 また、いわゆる形而上の事柄については、純粋な言語操作の産物を、現実に実在するものと同等かそれ以上の地位に認めることで成立するため、その世界観に確信がない限り扱う必要性がありません。抽象度が高い世界観を考えられるからといって、それに一定の地位を認める正当性もまたありません。考えるのは自由ですが、これはある意味職業倫理的な問題です。

 
2-2自己言及性

 哲学の問題の中には、解けない問いがいくつかあります。その特徴として顕著なのが、自己言及性のある問いです。

 自己言及性について例を上げると、「私は嘘つきだ」というものがそれです。仮に発言者が嘘をついているとすると、「私は嘘つきだ」という発言が真になるため、嘘つきではなくなってしまいます。仮に発言者が本当のことを言っているとすると、その時点で嘘つきではなくなりますので、どちらにせよ矛盾します。これは、発言の判定が、発言そのものに言及することによって生じる、構造上の問題です。

 実は、解けない哲学の問題は、言語が言語そのものに自己言及しているゆえに生じています。例えば、「エビデンスが現実と結びついていることが正しいと言えるのはなぜか」という場合、問題が「正しいとは何か」という問いへすり替わっています。この「正しさ」は、倫理的な意味と論理的な意味がありますが、どちらも何かの思考プロセスの判定結果ですから、判定結果の概念にさらに判定をしようとする自己言及性に陥っています。判定結果の概念の正当性を、その判定のプロセスが導出することはできません。

 先程の約束事のなさと合わせてみると、異分野を疑う哲学は、約束事によって成立するプロセスを認めずに、自己言及性のプロセスに接続するという論調が頻繁にみられます。自己言及している思考プロセスは、当然その領域外に接続する仕組みを持っていません。

 抽象度にせよ、この自己言及性にせよ、慣れていない人が一見すると、何か重要なことを言っているように見えますが、実際は上記の通りです。これらは、哲学的思考プロセスの内部では気づけない構造です。


3.なぜ哲学的な思考が生き残っているのか


3-1主観性

 世の中は嘘で溢れかえっています。週刊誌のネタやネットの情報が、嘘なのか本当なのかを判断する目を養う必要があります。この真偽判定の参考にするのは、信憑性の高いソースなどです。これは、信頼のある機関が発信しているものなどが該当します。この際、情報の信憑性の高さは、主観的な強度で推し量ります。

 哲学的な思考は、こうした外部リソースに頼ることなく行われるため、信憑性を高さは、本人の確信の度合いにのみ依っています。哲学の論文に関しては、引用数や学会での批評などによって正当性を評価する仕組みがありますが、個人の思考プロセスはどうしようもありません。公的機関を介さず、素人目で哲学の思考プロセスに確信を持ってしまうと、間違った信念を核としたまま、理屈だけが強靭になっていきます。そうなってしまうと、破棄するのは容易ではないです。

 ここでは哲学的思考にのみ言及していますが、嘘やオカルトを信じやすい人などにも共通の話です。何をもって客観性があると担保できるのかを理解していないと、変な通念に流されたり、変な人に騙されたりします。哲学的思考の場合、騙すのは自分自身だということです。


3-2思考の感触

 少し厄介な言い方をしますが、人の思考プロセスは、思考しか生みません。思考が連鎖することが、思考プロセスです。とすると、その思考の産物が現実と結びつこうがフィクションだろうが、感触的には区別がつきません。

 例えば、夢の中では、夢の中の出来事が現実のように思われることが多々あります。目覚めれば、夢の中の出来事はフィクションに過ぎないという感触を覚えますが、夢の中でその感触はめったに働きません。同じように考えると、思考プロセスにおいて、考えたことが本当なのか嘘なのか区別ができない場合があります。週刊誌やネットの情報を信じてしまう場合と同じです。

 通常、考えたことが本当か嘘なのか判断する際には、エビデンスなどの現実性を保証する仕組みを導入します。そして、普通なら、確証を得るプロセスに「慣れる」ことで、ある程度嘘か本当かを区別できるようになります。

 ですが、哲学的思考は、抽象度が高い思考を展開するので、エビデンスや現実と結びつく約束事がありません。当然、哲学的思考プロセスのみを展開し続ける人は、現実性を担保する仕組みに慣れる機会がありません。

 思考プロセスにのみ慣れている場合、概念上の存在(つまり概念)と、現実の事物を、感触で区別することができません。どちらも思考の産物だからです。こうなってしまうのは、ある意味「発達」の問題です。倫理を教育していない人に、善悪の区別ができないのと同様の事象になります。哲学的思考プロセスを展開しやすい人は、その構造を理解して対応できる人間が関わるなど、きっかけがないと変わりにくいと思われます。

 科学は、次の日に太陽がいつもと同じように昇ると保証することはできません。明日に突如として突然変異が起こり、科学法則が変わる論理的な可能性はあります。ただ、論理的可能性が現実にコミットするかは別問題です。言葉と対象がたまたま結びついている「写像関係」は、他の呼び方で対象を表しても構いませんが、かといって他の呼び方である必要性もないことを意味します。他の論理的可能性は考えられますが、他の論理的可能性を採用する正当性は、特にないのです。


3-3自己正当化

 心理的な防衛機制として、「合理化」というものがあります。これは、自分の精神を保つために、本人の意図に関係なく、自ずと理論武装してしまう仕組みです。

 通常合理化は、感情の不愉快な揺れ動きを抑えるために理論武装する仕組みですが、厄介なのは、逆に理論に対しても、感情的なロックがかかる点です。この逆転までいくと、自分好みの理論が自己意識と同一化しているのか、理論の否定がアイデンティティの否定のように感じられる状態になるようです。

 これは、信じる理論が、社会に認められているか否かの問題でもあります。先程述べたように、科学は検証プロセスを経て正当性を錬磨していますが、それだけでなく実用性もあります。経済発展のために活用されることで、その実用性を認められています。それと比較すると、文系学問は経済発展へつながるケースが少ないので、肩身が狭いかもしれません。かといって、社会要請もお構いなしに理論の正当性を主張すれば、社会不適応になります。

 誰にでも言えますが、自分の信じたいことが、宇宙の真理である必然性はありません。どれだけ「これが本当だ」と思っていても、どれだけ「こっちのほうがいいのに」と思っていても、現実がその通りになることはありません。知見を広げたり、思考をただ発展させたりするだけでは、それらが現実と結びつく仕組みがありません。思考を実現する行為が必要となります。


3-4極性

 これも慣れの問題ですが、人は物事を単純化するために、白か黒かで判断しようとします。脳が思考のコストを下げるためにそうしているのでしょうが、脳にとって都合の良い世界観が、実際の世界と一致する必然性がありません。

 SNSの炎上を追っていると、善悪の二値で物事を捉えている人が多い印象を受けます。自己正当化した自分の側は善で、そうでない者が悪となります。ですが、人間は一枚岩ではありません。日によって気分が変わったり、部分的に善人で部分的に悪人ということもあります。

 世界を単純化して捉えることは、ときに発見を促しますが、大抵は複雑な世界の一側面を見ているに過ぎません。世の中は甘くないですが、かといって最悪でもありません。白か黒かではなく、判別不可能なグレーの領域がほとんどです。

 この世に確実なことはなく、かといってすべてが不確実なわけではありません。予測の確度が高くなる領域と、不確実性の高い領域がマーブル状に散布しているイメージでしょうか。セッティングされた実験室の中は予測が利きやすく、経済の動向は予測がほぼ利きません。完全な理論などありません。

 思考プロセスにおいても、自己言及性のような複雑な仕組みになりつつも、主観性を正当化し、二値で世界を捉えようとする単純作動も両立します。科学理論は世界を限りなく近似的に捉えているので、大体合っています。哲学の大部分は間違っていますが、だからといってすべてが不必要であるわけでもありません。ただ、多くの人にとっては、限りなく不必要ではあると思います。そして、哲学に固執する人にとっても、本当はないほうがいい場合も多いかと思います。


4.科学に向かないこと


4-1カオス

 科学は思考とともに発展する学問である以上、万能ではありません。現実の事態のすべてを説明することはできませんし、科学さえあればすべての現実の問題が解決するというわけでもありません。極端なことは、理想系においてのみしか言えません。

 科学の限界について分かりやすい例を上げると、科学は「風邪」の原因が特定できません。というのも、要因がいくつも想定できるため、いくらでもストーリーが描けるためです。現在では、複数の要因から病気が生じることを認める考えを、「多因子病因論」と呼んでいます。

 もっと専門的なもので言うと、「三体問題」という問題があります。これは、太陽、地球、月のような、相互作用する三つの物体の運動が、一般には解けないという問題です。詳しい説明ができないのですが、数式の項がうまく消せないため、特殊な条件でしか解が確定していきません。この問題を抽象化すると、「相互に強く作用する三つ以上の個体の作動を表現する関数は、一般に解けない」ということでしょうか。

 こうした事態は「カオス」に属します。相互作用する事態が一定数より多いと、一つの変数の値が確定して、それから別の変数の値も導き出せても、それによってある項の値が変わり、またそれにより別の項の値が順次変わっていくというように、一向に解が確定しなくなります。数式は決定していて、そのときの状態が分かれば結果も分かるのに、未来の変化が予測できない関数があり得ます。コンピュータを用いようにも、現状ではほとんど未来が予測できません。

 カオスも、以下に述べる創発や自己組織化も、「複雑系の科学」に属するため、科学的な概念であることは確かです。ただし、その探求対象はほとんど文系学問が担うことになります。というのも、現実の大部分の事象はカオス系の事柄ですが、厳密な科学手法で扱うよりも、ざっくりと文系的な視点で捉えたほうが、人の頭ではしっくりきやすいからです。


4-2創発

 先程、相互作用にあるカオス系の変化は予測できないと述べました。その理由の一つに、相互作用によって新たに生じる性質のようなものがあるからです。

 例えば、「集団」というものを考えます。人が集まると集団になりますが、何人から集団になるかははっきりしません。それに集団は概念的な存在ですから、現実に実在するわけではありません。ただ、集まっている本人らとしても、周囲から見た人からしても、集団は一つのまとまりとして行動しているように見えます。

 台風も良い例です。生じているのは、風と雲の流れですが、鳥瞰すると渦のまとまりが個体としてできあがっているように見えます。このように、ミクロな物質の相互作用によって、マクロに異質な性質が出現することを、「創発」と言います。生命現象も、人間の意識も、創発的な事象として捉えられます。

 科学の中でもとりわけ物理学が、こうした創発を扱うのに適さない理由は、創発した性質がどの範囲の相互作用によって定まるのか、はっきりと定義できないためです。先程述べたように、どこからが集団でどこまでが集団なのか分かりません。やろうと思えばできるでしょうが、科学のスコープは厳格なので、創発した性質のように複雑でグラデーションのある事態を説明するのには向かないでしょう。

 また、創発はミクロ系の観察の延長上では不連続な性質に見えるため、原因追究がナンセンスになります。つまり、偶然の産物ということです。科学では再現性が担保できれば証明できますが、生命や意識、貨幣経済の創発などを、どのように再現したらよいのでしょうか。

 こうした事態はむしろ、文系学問や芸術が扱うのに適しています。おおざっぱなフレームでみたほうが、かえって本質を捉えやすいこともあります。というのも、大抵の本質は粗雑なものだからです。


4-3自己組織化

 科学で扱いにくいことを説明するなら、創発の事例を述べるまでで十分ですが、補足として加えます。創発した性質の実態は、相互作用する物質のまとまりが、あたかも実体として存在するように振る舞うことです。ミクロ系では量的な変化があるだけですが、マクロ系ではそれが質的な変化をもたらします。

 集団や台風、意識などの明確な範囲は定まりません。相互作用する物質のネットワークによって、その性質が出現しています。このまとまりは、他と相互作用する際、ミクロなネットワークを組み替えつつも、マクロ的には一つの個体のように他と相互作用します。人間の身体は日々細胞を入れ替えますが、マクロ系での他との相互作用を捉える際には、そのミクロな変化は無視できるほど小さいものだと言えます。

 このような場合、微細な部分は代替可能ながら、一つのまとまりとして維持されている組織が生じています。この相互作用のネットワークで成る組織を、マクロ的な自己として捉えます。すると、創発した現象は、ミクロな物質の相互作用が自ら組織を生み出す、「自己組織化」のプロセスと考えられます。

 自己組織化で起きているのが、プロセスの再帰性です。例えば、結晶生成で言うと、作られた結晶に隣接して結晶が作られるため、その結晶生成は、それまでに生み出した結晶の量を次の生成に組み込んでいます。生み出された物のネットワークでまとまりができると、まとまりが生み出した物が、自身と相互作用します。相互作用が再帰することで、組織が擬似的な階層構造を持つことになります。

 意識は、前頭葉あたりの脳神経細胞が活性化するときに働いているようです。意識は一つのまとまりを持ちますが、意識の範囲は特に定まっておりません。感情が働くこともあれば、想起が働くこともあります。おそらく、脳神経細胞の活動が、前頭葉を含めたネットワークを作動させるとき、意識が働いている感触があるのでしょう。

 そして、この作動中の意識のネットワークの中に、観察的な意識が再帰的に作用するとき、「自己意識」が働くのだと思われます。クオリアは、「この感覚」という感触がある以上、感覚質の自覚なので、自己意識の段階で気づかれている事象です。物理的には、五感を司る感覚野から前頭葉に至る活性化の後、一度側頭葉などを迂回して再び前頭葉に作動が帰ってくるイメージでしょうか。

 自己意識の成立は上記の通りですが、主観的な意識の創発については、物理学では扱わないにしても趣はあると思います。創発原因の追求はナンセンスですが、このような質を持つ以上、特異な事象として扱うことの展開可能性はあります。概ね文化や文学、映像といったものに、活用の道が開かれています。



5.哲学の位置づけ


5-1科学史と哲学史を振り返ってみる

 宇宙の真理を探求する学問として、物理学の右に出るものはありません。古代ギリシャで創発した哲学は、約2千年後の中世の辺りで、自然科学に探求のコアを明け渡しています。当時の人々は哲学と科学を区別していませんが、科学史と哲学史的に私見を述べると、アリストテレスが作った学問のプロトタイプを、デカルトやガリレオ、ニュートン等が製品版に仕上げた時点が分岐点で、もう大半哲学は迷宮入りした印象です。デカルトが思惟する自己意識を論理的に創発したので、主観性が学術的な性格を帯びたようです。

 学問は対象を後から語るという性質上、「すでにある真理を発見する」ものだと思われがちです。ただ、掘り下げて考えると、「すでにある」という状態がどれくらい前から成立しているのかは問われるべきでしょう。宇宙ができた頃からそうであったことと、考えることによって成立するようになったことは別物です。

 科学は物理的な道具立てを用いており、物理法則が一貫する宇宙についての説明を与えます。哲学は内省と思惟によって展開するため、概念や思考プロセスそのものを扱っていると考えたほうがよいでしょう。だから私は哲学を「思考パターンの発展史」だと考えています。ただ、この思考パターンは一般的な人や他の学者のものではなく、哲学の思考パターンです。これはすでにあるものを分析するというより、哲学者の発想によって生じたものです。

(語るタイミングがなかったのでここで補足を述べると、計量化を意味する「測度」の概念をセッティングしたのは、中世のドゥンス・スコトゥスという人です。科学は、未だ量化していない感覚的な度合いである「強度」を、測度に落とし込む作業です。例えば、火の強さの感触を測度に変換すると、水の沸騰時間で表せます。系譜で言うと、アリストテレスの概念である「外延」を測度に、「内包」を強度にリメイクしています。) 


5-2西洋の哲学文化

 近代ヨーロッパは、学問が栄えた土地です。人は民族と伝統に誇りを持つもので、ざっくりと言えば、何であっても自分たちの生み出したものに一定の価値を見出したいものです。それがたまたま哲学だったとしても、おかしくはないです。

 フランスの大学の入試科目に、哲学があるのは有名な話です。思考の論理性を問われる、いわゆる論述問題ですが、わざわざ「哲学」と言う辺りに入れ込みようが伺えます。フランスというと、その政治的意識の高さが連想されます。文化として、思想的な考え方が染み付いているのでしょう。

 中世の時代を考えてみると、神学ですら真面目に議論されていた状況がありました。当時の学問は、宗教の目を気にしながら発展していたものですから、そのうちの科学も陰りにあったのでしょう。今では神学はほとんど見かけなくなりましたが、哲学は何とか首の皮を繋いでいる印象です。

 自身の文化や宗教に誇りを持つことは、悪いことではありません。精神的には良い面があります。哲学はなまじ学術的な性質を帯びているものですが、誇りやすい伝統なのではないでしょうか。ヨーロッパの知り合いが居ないため何とも言えませんが、文化的なものだと考えると、あまり深堀することもないかと思います。


5-3日本で哲学科がある理由について

 日本が哲学を輸入したのは、明治維新のあたりです。この時代は西洋諸国に追い付かんと、多くのものを取り入れていた時代です。この頃の「西洋の文化は先進的だ」という通念が、今でも尾を引いている気がします。

 普通に哲学科の意義を考えると、歴史研究と類似したものとして落ち着くでしょう。西洋の思考の文化がどのように発展してきたのかを捉えるとき、一つの切り口として哲学を追う見方も取れます。歴史を学ぶ意義は多岐に渡りますが、個人的には、今ある現状を俯瞰的に捉える用途を推します。通念や常識の前提を疑う際には、史的なアプローチは必ず通る道です。私は歴史が好きではないですが、歴史を知らないことは、現状を何も分かっていないのと同義だと思っています。

 現代でも日本に哲学科が残っている理由の裏を読むなら、政治的なものだと言えるでしょう。一定の文化水準を担保することで、列強諸国に比肩するブランド価値を保とうとしているのだと思います。これは、芸術に税金を投入する理由と同じでしょう。科学は軍事的な利用価値がありますが、文系学問や芸術は文化水準の担保が利用価値です。

 それから、一定の経済的需要を生じさせているのも事実です。そもそも経済は支払いが生じればよいわけですから、その是非はともあれ、一定数の需要に応えて生計を成り立てている人たちがいる現状は正当です。そのあり様を否定することは、資本主義の批判にもなります。

 ただ、哲学の需要で経済的に救われている人がいるのと同時に、何も知らない若者が前途多難な迷宮に舞い込む可能性が開けているのも事実です。「子どもは社会の宝」とはよく言いますが、正確には「子どもは社会の労働資本」でしょう。持たざる若者が、資本を持つ大人に搾取される構造の是非を疑うことはできます。そして、倫理学ですら、それを修めた先の将来を想定すれば、望まずとも資本主義的な構造に荷担していると考えられなくもないです。自己言及だとしても、倫理学が経済的なリアリティに支えられていることについては、倫理的に問われるべきかもしれません。

 あとは単純に、一度始めたことを止めるには、それなりの理由が必要だということが関係していると思います。哲学科では「精読」という技術を継承しており、経済的価値は問わないものの、一定の文化的価値があります。先の経済的に救われる人たちを含めると、哲学を廃止するには、それこそ致し方ない理由がなければなりません。銀行を介した金融資本で経済の安定性を担保している以上、政府は予算的な理由をつけることはできません。不要だと言う人が騒いでも、どこがどう不要で、それを破棄することで上回るメリットがあるのか等、哲学をピンポイントで打ち抜く正当な理由をつけられないわけです。


5-4哲学の領域

 哲学の範囲を批判すると、その領域は広くありません。主要な道具立てが言葉ぐらいしかないのを踏まえると、言葉と親和性の高い意識や感情など、主観的な領域に限定されることになります。これはこれで深みがあります。
(理論分析の役割については、後に追記でまとめました。)

 科学的なアプローチで脳を分析したとき、主観的な領域はごっそり抜け落ちます。それは現状、主観的な領域が測度に変換できないからです。人間は算数や計測機器に慣れないと、量的に思考することは難しく、捉えられる対象の単位が、言葉の概念に寄ることになります。ソシュールやドゥルーズが「差異化」と呼んだ言語の機能です。これによる世界把握は、科学に比べて粗いですが、主観性にはしっくりきやすいです。というより、教育によって人間の意識は、言語に近似的になっていると考えたほうがよいでしょう。

 主観的な領域が量化できないことについて、一度物理的なアプローチで考えてみます。例えば、同一人物の脳神経細胞の状態を一度バラバラにし、完全に元通りに再現すれば、意識の状態も再現できるという人がいます。現状は物理的に実現できないものの、できると仮定すればそうなります。そもそも問いが、その帰結になるよう設定されています。

 ただ、二人の脳神経の状態を完全に一致させて、同一の状態になるかは疑問です。相違が生じるのは、記憶領域です。単純に、その人が経験していないことを再現するのは不可能でしょう。記憶は、予め存在する対象を記憶の箱に入れるイメージではなく、感覚野の発火パターンを、記憶野の発火パターンに連動させ対応づけることによって、成立するのだと思います。つまり、二人の神経活動のパターンが一致しても、記憶した際に捉えた事物が異なれば、想起されるものも別になるはずです。

 このように考えると、主観的な領域の側から量を捉えるとき、すべての人間が満場一致で「計量化の仕組み」を理解できなければ、普遍的で精確な量化ができるとは言えません。言うなれば、知能の限界があります。知能が人によってグラデーションであるというカオス系の限界が、主観性の量化を困難にしています。ただし、客観的に限りなく近似を取ることは可能ですから、AIなどの技術で十分客観的な分析は可能だと思います。

 主観の領域を主観の側から語る場合、明確に領域を定義するよりも、ひとまず定義してみて、行動しながら軌道修正していくやり方が向いています。だから、哲学者が定義を保留(「カッコに入れる」とか「サスペンドする」とか)するのは、一概に悪いこととは言い切れません。基礎研究が早急な時代に合わせるものでないのと同様に、独自の時間軸で研究を進めるのを否定する理由がありません。ほとんどが廃棄物ですが、その中のほんの一滴に、斬新なアイデアが創発する可能性は拭えません。

5-5追記_哲学の領域について

 このエッセイを読んでくださった方に、「科学哲学や法哲学、政治哲学は主観的なのか」と指摘を頂いたため、追記が必要だと判断しました。結論から言うと、それらは主観的ではないものの、哲学というより各学問領域に属する分野なのではないかと思います。

 科学哲学についていうと、その問題の一つに、科学の基礎が何であるかを問うものがあります。すでに述べたように、個人的にリサーチプログラムと量化が重要だと推しています。この回答は、科学史を参照にして導かれたものです。とすると、「~哲学とわざわざ名づける必要性があるのか」というのが私見となります。

 哲学の哲学性の基礎付けを問うと、自己言及しており、定義が循環します。哲学の明確な基礎付けは不可能であり、哲学性の条件も曖昧です。科学哲学と呼ぶか、科学基礎論と呼ぶかは、概念上の区別が生じますが、その領域の区別ははっきりしないかと思われます。

 私はこのエッセイで、人文科学研究の有効性については批判できないと考えており、その配下にある法哲学や政治哲学も、批判の枠を越えていると感じています。このエッセイで狙い打ちしたのは、概念上の存在を物理的な事物と同等かそれ以上の実在として捉える形而上学や、他の学問を基礎づけようとして前提を覆す哲学のため、他の学問と寄り添う哲学については批判ができません。この点は誤解がないように追記を判断しました。

 法哲学と政治哲学については、学部で一切触れる機会がなかったので、詳しい事情を知らないのですが、それらは法学部や政治学部でも研究できるのではないでしょうか。つまり、学問分野発生の系譜上、制度的な区別をつけただけで、実態は問題点の多い哲学ではない可能性があるかと思います。

 哲学の領域を主観性に絞ったのは、先程述べたように厄介な問題を狙い打ちするためで、その上での展開地点をセットアップする目的です。すでに他学問の人文科学研究で検討されている領域は、その学問がスタート地点をセットアップしているものだと思われます。それらを、私が批判した哲学の地点から語ると、土俵の外から相撲を取ることになります。

 結論としては、哲学性を主張して、他学問を基礎づける哲学は不可能だということになります。個人的な学問観をまとめると、主観性の領域は哲学や文学や芸術で扱い、物理的な領域は科学で扱い、理論の客観性は各学問が扱うものだと考えます。法哲学や政治哲学は、各学問の配下にある分野であり、主観性の領域に哲学を絞ると、別の学問になります。ただし、哲学科で法哲学や政治哲学を研究できるという点については、制度上そうなっていることに特に問題点は感じていません。

 

おわりに

 最後に、身の上話をさせていただきます。私は栃木県のとある工業高校から東洋大学哲学科を目指しましたが、一度不合格になり、同大学の東洋思想文化学科の第二部に入学してから、転科して哲学科に入りました。普通科の受験科目も理解が薄いまま入学し、三年間という短い期間を哲学科で過ごしたことになります。

 短い期間だから哲学に染まっていないというわけではありません。学部の頃から、院の授業に出たり、学会に行ってみたりと、熱意はありました。卒業してからも、こうして文章を書くことからも、哲学は相性が良かったと感じています。24年間で最も充実していたのは、学問に時間を投じた3年間です。私は哲学科に行ったことも、哲学から離れたことも後悔していません。

 私に強い影響を与えたのは、「オートポイエーシス」をはじめとした複雑系の科学を専門とする哲学科の教授でした。「哲学者の言うことは9割9分間違っている」とか「頭が良いやつなら哲学者じゃなくて物理学者になってる」とか、いろいろと破天荒なことを言っていたのを覚えています。もちろん講義では哲学の話をしていましたが、一般的な哲学の教授ではないことは確かです。ブーメラン的な発言も、冗談混じりの半分本気だったのでしょう。「哲学科に来たのが最大の間違いだ」と言っていましたが、たぶん出身の研究室の都合と、人付き合いが関係していたのでしょう。いわゆる大人の事情です。

 私が学術機関から離れた理由を上げると、金銭的な事情、精神的な事情、知能や熱意の限界など、きりがありません。いろいろな意味で、将来が見えなかったわけです。哲学を大学で学んでいても、修士課程までならまだ軌道修正ができます。今一度家族の顔を思い出すなりして、身の振りを考えてもいいかもしれません。私は将来の家族の顔が思い浮かばなかったので就職しました。


 教授が言っていたとおり、社会に出て学術的な知識が役立ったことはほとんどありません。常々、人間の社会は資本主義が自然の摂理なのだと痛感します。大学は、職歴の相場を引き上げるための学歴という資本を得る機関です。経済的に成功している人は、良き師や繋がりに恵まれるなど、経済構造に合った資本を引き上げる仕組みに則るため、大学はほとんど関係しません。日本で『ONE PIECE』が売れるのもよく分かります。世界各国の政治的な均衡の仕方は『NARUTO -ナルト-』の世界観(核抑止)でも、自由主義経済のあり方は『ONE PIECE』的(任侠)です。生き残るためには、誰かの傘下に入るか、成り上がるしかないのです。

 それでも学問を学ぶ意義があるのかというと、それはこの御時世ではナンセンスな問いだと思います。供給過多の時代に、わざわざ在るべきものだけ選別すれば、ほとんどの人は路頭に迷うでしょう。価値を生み出せる人、価値を見出しえる人が求められています。迷惑かけずに勝手にやっている人を、端から否定する必要がありません。社会的需要に合わせて発見された真理のほうが少ないです。学問の発展は個人的な意欲によるもので、客観性は後から担保するものです。

 私は社会を形づくるビジネスマンや公務員だけでなく、学者の熱意をより敬服します。例えそれが哲学者であろうと誰であろうと、日々の生活を工面しながら好きで打ち込んでいる人は、輝いてみえるものです。私には真似できませんでした。満員電車に揺られることのストレスも特に感じないあたり、熱意には無縁の者です。ただ世界は流れるだけです。

 それでも、自分が世界の不連続であることを、どこか望んでいるのでしょう。この意識が、世界に物理的な痕跡を残したいというのです。私は科学者の一員にはなれません。経営の中枢にも関心がありません。己が真理を探求する者として、哲学の性質だけは記しておきたいのです。人が望んで期待し、価値を信じる哲学のあり方ではなく、無情で冷たい哲学を。宇宙のあり方を語るように、冷淡な事実を告げたいのです。私は哲学好きの人たちとの繋がりを失ってでも、メタ的に見て個人的な意見でしかないとしても、ただ自分の信ずるを残していきたい。それが世界への誠実な態度だと思うのです。

追記_おわりに

 人は言葉で考え、言葉によって感情を揺さぶられたり、世界認識を変化させたりします。これは文化的なものです。賞賛や罵倒が成立するのも、言葉が意味する文脈の理解が前提にあります。言葉は文化によって、力を持っていたり、存在するものとして考えられたりしています。

 特定の言葉は、属する文化によって、特別な価値を帯びます。学問の業界にあっては、「真理」や「真実」、「事実」といった言葉は、かなり慎重に使われる言葉です。

 「哲学」についても、業界を知らない多くの方が、誤解や偏見で捉えている現状があります。これは、人間心理の仕組みである「確証バイアス」のせいでしょう。誤解や偏見も自己組織化し、その偏りを増殖させていくのです。

 実際、哲学の範囲ははっきりしたものではなく、法哲学や政治哲学など別の学問領域下にあるものに哲学とついているものもあるため、「哲学」という言葉に引っ張られて、実態を捉え損ねることは十分あり得ます。

 私は、言葉というものは、現実を表すにはとても曖昧なものだと思っています。個人的に詩を書くこともありますが、常々言葉は現実や現実感を表現するには不自由だと思います。ですから前提として、言葉で捉えられていることは、物事の一側面しかないと考えています。だから誤解や偏見は生じるのです。

 私はなるべく文中で「思います」という言葉を使ってきました。論文では使わない表現です。というのも私には、現実を確定した物言いは、必ず現実を損ねるという認識があるため、別の可能性を含めるよう濁した言い方をしています。文中で確定した物言いがあったとしても、リズムと語感でそう書いているだけで、すべて確定しない物言いをしているつもりです。丁寧語で表記しているのも、強い語調で表現しないようにするためです。

 ですので、私は学者と異なり「真理」という言葉にあまり思い入れがないのと同時に、その言葉で表現されることについて物理的な存在を認めていません。真理は理論的なもので、人間の言語上の概念だと思います。物理的に残るのは、記された文字やデータです。理論は間接的に残ります。それは数学の体系のように無時制ですが、文化的なものです。

 私の言語観を述べると同時に、心身二元論について言及して終わりとします。まず、言語と事物は、一方が一方を写し出す写像関係にあります。「イス」という言葉と、それが指す対象は結びついていますが、必然的な関係はありません。「イスス」と呼んでもいいですが、そうした別の言い方で呼ぶ理由も特にありません。これを言語と事物が「内的関係」にあると、ウィトゲンシュタインが論考で述べたそうです。

 神経細胞が何かを記憶する際も、写像によって、事物と神経の内的関係を作るように働くと考えています。より精確には、感覚野の発火パターンを、記憶野の発火パターンが写像するわけなので、感覚野の神経活動が記憶野の発火へ連動するその一連の作動を、神経細胞がパターン学習しているのだと思います。

 私はこの内的関係を、心身の関係にも拡張できると考えています。内的関係にある二つは、偶然性によって結びついていますが、対応はしています。ただし、宵の明星と明けの明星が金星になるように、内的関係性が変化することはあります。何度も言っているように、言葉は曖昧ですから、「心」という言葉の範囲が、神経の特定の範囲を指示するとは限りません。神経活動は複雑なネットワークで成り、それが心を創発していたとしても、どこからどこまでが心であるかが確定するとは限らないのです。

 私は唯物理論寄りですが、物質(剛体)ベースではなく、エネルギーベースで物事を捉えているので、ドイツ観念論の発想が近いです。観念論が精神の派生で物質が生じたと考えるなら、ドイツ観念論は精神=自然(神)の働きと捉えているので、高エネルギー空間から物質が生じるエネルギー一元論に近い発想となります。ただし私は、次元が創発によって派生したものについては、元のものとは別物と捉えますので、多元論の考え方となります。ここまででもうすでに、心身一元論とか二元論とかが、単純化した考えに過ぎないと言えるほど、錯綜した考え方をしています。

 もっと言うと、このエネルギーが定数的にしかない場合、量子論と世界観が一致することになります。量子論は唯物理論の世界ですが、一元論ではありません。心に量子は関係するでしょうが、量子のような存在の仕方をしているというより、神経活動のネットワークから創発したまとまりが、活動の再帰によって統一的な働きをするため、エネルギー体のように見えるのだと思います。物理世界ではそうなりますが、それと内的関係にある主観性の場合、意識体験が生じているのでしょう。これを幻想と呼ぶか存在者と認めるかは、文化的あるいは趣味の問題で、科学体系の内で定義から外れるなら実在しないと言えるだけの話だと思います。心身一元論が主観的な体験を否定するという考え方をしているならば、言い過ぎでしょう。

よろしければ、フォローかサポートお願い致します。 https://www.instagram.com/?hl=ja 夜勤シフトかつ経験値が積めない仕事に準じているため、生活の余裕と自己研鑚が必要だと認識しています。