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政治的なものとは本来、自ら義務を負うことです

永井清彦編訳『言葉の力 ヴァイツゼッカー演説集』岩波現代文庫、2009年。

ヴァイツゼッカーはドイツの大統領を務めたこともあり、演説の名手としても名を馳せた人物である。

本書は、ヴァイツゼッカーの演説のいくつかをまとめたものである。そこからはヴァイツゼッカーの歴史認識と過去のドイツの行動についての姿勢、ナチスの時代を生きていない人も負うべき責務と、そうでない責務、政治家のみならず遍く人々の政治に対するあるべき態度といったものを読み取ることができる。第二次世界大戦での敗戦という経験を共有する日本は、彼の演説から得られる部分も多いように感じる。

現在、少なくとも日本にいる多くの人は自由を享受している。一方で、選挙の投票率は低迷が続いていることが、しばしば話題となり、問題視もされている。投票に行かない理由として、誰に投票しても変わらないとか、誰に投票すれば良いかわからないとか、そもそも興味がないといったものが挙げられるだろう。しかし、ヴァイツゼッカーによれば、そのような姿勢は許容されるものではない、ということになるだろう。

今ある自由を享受するだけでなく、その自由を今後も守っていく必要があるからだ。そのためには、政治に関心を持つ必要があるという。今、享受できている自由。例えば、言論の自由もその一つだろう。私がnoteを書くことで処罰を受けることは、公序良俗に反しない限りはないだろう。また、SNS等で政治について(誹謗中傷ではなく)批判を述べても、処罰されることはないはずだ。このような自由は、戦前の日本では保障されていたとは言い難い。

戦争での敗北が大きいだろうが、先人たちが血を流し、命を落としてまで、このような自由を獲得してきたのである。こうした自由は、各人の努力なくして保持し続けられるようなものではない、ということだ。これまでの自由を享受し、またその自由を享受し続けるためには、各人の努力が必要で、そのような努力をする責任があるのである。

本書は選挙での投票率の低下、歴史認識の問題といった今の日本でも話題となる事柄について、多くの言及がなされている。こうした事柄について、日本以外ではどのような議論がなされていたのかを知ることは、日本で起きている状況を理解する上での一助にもなるのではないかと思われる。ただ本書は、ヴァイツゼッカーがキリスト教の平信徒としての態度を示していたとされることもあり、頻繁にキリスト教や聖書に関連のある言葉が用いられている。キリスト教や聖書の内容といったことに馴染みのない日本では、本書を理解していくのは難しい部分も少なくないと、本書を読んでいて感じた。


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