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実に表現の自由こそは自主政治社会の本塁というべきです

E. H. ノーマン著、大窪愿二編訳『クリオの顔』岩波文庫、1986年。

本書の存在を知ったのは色川大吉『歴史の方法』で度々引用されていたことによる。そこでの引用部分が面白いと思ったため、本書に手を伸ばすことにしたのである。

これまで、ノーマンという人物の存在は全く知らなかった。彼はカナダの外交官で日本語が堪能な上、日本を愛し、日本に関連する多くの論考を遺した人物のようだ。本書に収められている論考は、ノーマンの外交官人生と赤狩りに追われた時期に書かれたものである。

ノーマンによれば、言論と表現の自由があらゆる自由の一丁目一番地である。ここが崩れと自由は全て崩壊していくという。この言論と表現の自由に関しては、最近しばしば話題になることがある。日本では戦後、おそらくは漸進的に自由の範囲・対象が拡大してきたといえるだろう。その結果なのか分からないが、最近は表現の自由に対抗する自由、すなわち自分にとって見たくないものを見ない自由のようなものも、市民権を得つつあるように思われる。これは自由の範囲・対象が拡大していった結果、自由と自由の間で対立が生じるようになったことによるものである。

また、自由の範囲・対象が拡大したことで、自由というものに批判が向けられやすくなったり、自由を享受することに億劫になったりする人も生まれるようになっている。その意味で、自由が脅かされやすくなったようにも思われる。

ノーマンは、こうも主張する。歪曲されたり誤解されたりした歴史認識は、国のまとまり、団結、絆を維持するには役に立たない。それは、ややもすれば、そのようなまやかしは崩壊するからである、と。本当にそうだろうか。私は、この点については懐疑的な立場である。少しSNSをのぞいてみれば、学界においては誤りとされているものであっても、声高に、長く誤った主張を展開し続けていると、それもまた事実であるというようにみなされ、一定の支持を得てしまうという現状があるからである。よく見かけるのは、源泉徴収票はナチスの発明であるとか、ナチスは障害者を保護しようとしていた、といった類の誤解が挙げられるだろう。

たしかに、ノーマンが主張するように、誤った歴史認識に基づく国民などの統合は、長続きしないかもしれない。しかし、再び悲劇的な出来事を歴史の一頁に刻む危険が伴っているのではないかと思う。


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