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「非常時気分」が蔓延する社会

久しぶりにいい記事を読んだ。安倍内閣は「偽装内閣」とも言うべき状況なのに、なぜ延命し続けるのか、政治学者の片山杜秀氏の論考が紹介されている。少し長いが、引用させて頂きたい。

 平和な時代には話し合いと調整の余裕があります。ところが、現在の日本は違うと多くの人たちが認識している。内閣官房の強大化が受け入れられている理由も、ここにあるのではないでしょうか。つまり、現在の日本は非常時に直面していると捉えられているということです。......(中略)
 安倍総理はこうした危機的状況にうまく対処している。そう信じている国民が一定数居る。そのため、これまでの政治の常識であれば退陣しなければならないような不祥事が起こっても、安倍内閣が非常時に対処していることを理由に、相殺されてしまうのです。平時の感覚なら内閣退陣につながるに十分な不祥事も、国難といった言葉によって切り下げられてしまう。もっと言うと、現内閣は非常時気分を上手に演出することで、延命する術をよく心得ているのです。そこには言わば「官房力」が大きく参与しています。......(中略)
 「官房力」が権力の私物化にのみ使われていると世間が見ればたちまち解体されるはずですが、危機の時代に必要な「非常時権力」として承認されてしまっている。日本だけでなく、アメリカのように自由を大切にしてきた国でさえ、権力の一元化が進み、自由や人権が制限されるようになっているのですから。アメリカはブッシュ政権以来、すでに20年近くテロとの戦いを続けています。ようやく安全になったと思ったころに再びテロが起こり、さらに自由を制限するということが繰り返されています。このまま進めば、テロとの戦いは30年戦争、あるいは100年戦争になるかもしれません。しかもそれは権力一元化の口実という面があるのです。その中で人々は権力から抑圧されることにもっともっと慣れていくでしょう。


この論考を読みながら、以前に読んだある本のことを思い出した。

社会心理学者の栗田季佳氏、障害学者の星加良司氏、社会学者の岡原正幸氏の3人の著者が「障害者に対する差別・偏見」をめぐって、各分野からの考察を行う著作。第5章「特別討論〈相模原事件〉の後のこの国で――有事モード下の差別と偏見」では、相模原障害者殺傷事件後に3人が対談した内容が収められている。その中で、星加氏は次のような指摘をしている。

 日本に限らず世界が何度か未曽有の災害を経験し、社会的な危機に直面する中で、極限的な状況における生の選別や優先順位づけというものを、半ば当然のものとして受け入れるようになってきたのではないか。典型的なのは、いわゆるトリアージというものですね。(中略) しかし、原発事故のように危機が何十年にわたるとされる中で、その危機の感覚自体が極限的な短い時間に止まらない、日常のものになってきた。そうなる中で、極限における生命の選別という思想も日常化してきたのではないか、と感じているのです。資源が限られる中で何を優先するのか、ということが盛んに言われ、それが尊厳死や出生前診断の議論を後押ししている、あるいは生活保護バッシングなどの制度的な見直しにもつながっているのではないか。(p.72)
 まさにその有事感覚が、今の社会を広く覆ってしまっているように思います。単に安全保障上の脅威というだけではなくて、グローバル化によって労働市場の競争圧力が高まっているとか、少子高齢化で人が足りなくなって大変だとか、あるいは原発事故と放射能リスクのような問題も含め、危機を語る言説に満ちています。(中略)いわば、思考全体が「有事モード」になっているのではないでしょうか。(p.73)

思考が「有事モード」、先ほどの記事で言えば「非常時気分」に支配されると、人権意識が弱まり「優生思想」が強まっていくことは、これまでの歴史も証明している。議論の中でも、岡原氏が星加氏の意見に答えるような形で「戦時における差別というのは、それこそ古今東西、マイノリティはことごとく虐殺の憂き目に遭ってきた」と指摘している。無論、第二次世界大戦前のヨーロッパ(特にドイツ)で、優生思想が席捲した背景にも「非常時気分」が関わっていた。つまり、ユダヤ人をはじめとした人たちへの「迫害」が正当化された背景には、第一次世界大戦での敗戦後に「非常時気分」が強まったドイツの状況が大きく関係しているのである。


以前、メディアアーティストの落合陽一氏と社会学者の古市憲寿氏の対談が「優生思想」ではないかと話題を呼んだことがあった(参考記事はこちら)。これも、日本が「少子高齢化」をはじめとした「非常時」を迎えているという感覚の中で「優生思想」に基づいた意見が出てきて、「非常時気分」の下で正当化されようとした側面があったのではないかと思われる。話題になった時の落合氏のツイートはこちらである。問題解決のためには「優生思想」も仕方がないというような姿勢が垣間見える。


実際、日本が「有事」であるという意見にも共感できないわけではない。少子高齢化や人手不足などは深刻な社会問題である。社会問題から目をそらせば、かえって問題を肥大化させるリスクが高まるだろう。

しかし、「有事」であるからといってすべてが許されるのだろうか。そんなはずはない。「有事」であっても、生命の恣意的な選別は許されないし、「偽装内閣」も許されていいわけがない。「有事」だからこそ、落ち着いて考えなければならないはずだ。「有事」だからこそ、優生思想をはじめとした「差別」に対して敏感にならなければならないのである。


単純明快な政策に踊らされないこと、「カリスマ」的なリーダーを求めないこと、そして、考え続けること。

これらは、第二次世界大戦での「全体主義」について考察した哲学者のハンナ・アーレントの指摘の一部であるが、現代社会にも広く通じるものがあると言えるし「非常時気分」の蔓延する社会だからこそ、深く心にとどめておきたい。


そういえば、アメリカでも、トランプ大統領の「非常事態宣言」をめぐって社会が混乱しているという。国の「非常事態」に敏感になるだけでなく、「非常事態」という言葉が生み出す「非常時気分」に対しても敏感になることが、より良い社会を作るために必要になるだろう。日本でも同じだ。さまざまな論者の主張する「非常時」「国難」という言葉を冷静に受け止め、考える。そんな心の余裕を持ちたいものである。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。


参考にした記事

拙文


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