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名作コラム・コルタサル「正午の島」 ~アウルクリーク橋のその先へ~

 さて、今回の名作コラムは古典から現代文学へと系譜が受け継がれ、そして進化していった技法に関して、20世紀の幻想文学の最高峰に位置するアルゼンチンのフリオ・コルタサルの短篇「正午の島」を取り上げてお話ししたいと思います。
 ……が、実はこの物語の系譜はその100年前、19世紀のアメリカの作家アンブローズ・ビアス作の短篇「アウルクリーク橋の出来事」から解説する必要があります。

あらすじはwikiからの転載です。

南北戦争中のアラバマ州のアウル・クリーク鉄橋で、農場主ペイトン・ファーカーが、南軍に味方して鉄橋を破壊しようとしたスパイ容疑で絞首刑にされようとしていた。彼は残してきた農場や妻子のことを思いながら、もう一度家に戻れたらと思いを巡らせる。絞首刑が執行されたが、首を吊るす縄が途中で切れたためファーカーは川に落ち、そのまま逃げ出した。銃弾をかいくぐって川を泳ぎ、野山を走り、かろうじて逃げおおせたファーカーは、死に直面する前には思いもしなかったほど樹にも草にも鮮烈な印象を受ける。森の道をたどったファーカーはやがて一軒の家にたどり着く。そこは妻と子供が暮らす自分の家であった。
ファーカーが我が家に駆け寄り、妻を抱きしめようとした瞬間、強い衝撃と共にファーカーの体がアウル・クリーク鉄橋からぶら下がった。すべては処刑の瞬間に彼の強い願望が見せた幻覚だったのだ。

 以上、つまり[走馬燈の系譜]の金字塔となっています。
 物語の形式としては中国の古典「一炊の夢」「邯鄲の夢」など、短時間の睡眠で一生の経験をする作品は世界中で良く知られていましたが、ビアスの抜きんでた所は、荒唐無稽な空想ではなく、実際に目の当たりにした南北戦争の陰惨さと命の扱いの軽さをリアルにフィクション短篇に取り入れた事。更に言えば、アメリカ人の逆転願望、ハッピーエンド願望、そして挑んでも無駄な事が解りつつ転落するメルヴィル「白鯨」に通じる精神性が短篇に全て塗りこめられているからです。
 19世紀にこの作品が発表されてから同じ形式の作品が数多く誕生し、映画ではギリアム「未来世紀ブラジル」、ノーラン「インセプション」が著名な所ですね。短篇ではボルヘス「隠れた奇跡」もビアスとカフカの再構築としても重要なテキストです。

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 そしてこの系譜を更に発展させたのがフリオ・コルタサル「正午の島」です。

主人公は客室添乗員のマリーナ。マリーナの登場する便は正午にエーゲ海に浮かぶギリシア・キーロス島の上空を飛ぶ。マリーナは女性客室添乗員のフェリーサやタニアなどと逢瀬を繰り返しながらも、フライト中にキーロス島を眺める事に執着する。長期休暇にキーロス島に出かける予定を立てていたのだが、フライト中に漁網と一緒の人影が飛行機を眺めるのを観て、直ぐに島を訪問する事を決める。
島で村長クライオスと息子たちを紹介され、息子の一人イオネスにギリシア語や島の言葉を教わり、島の女達と目配せしたりしていた。
そして濡れた身体を岩で乾かしていたマリーナは、自分の搭乗便がエンジン不良で島の近くに墜落するのを目の当たりにする。搭乗してるフェリーサらを助けようと海に飛び込み、近くにいた男の髪の毛を引っ張り、命からがら助け出そうとするが……

 さて、物語の終わりは作品からの引用で締めましょう。

クライオスも駆けつけてきたが、息子たちは砂浜に横たわっている男のまわりにいた。男は自力で岸に泳ぎ着き、血を流しながら砂浜に辿り着いたのだが、彼らはそんな男を見て、どこにそれだけの力が残されていたのだろうと不思議に思った。「目を閉じておやり」女の一人が泣きながらそう言った。もうほかに生存者はいないかと思って、クライオスは海の方を見た。けれどもいつもと同じように、島にいるのは彼らだけで、彼らと海の間に存在する見慣れないものと言えば、目を大きく見開いている死体だけだった。

 このような物語になっています。
 一般的な解釈はやはり[走馬燈の系譜]としてのプロットです。島に行く決心を決める瞬間までが現実で、その後、島へと向かい島民との交流や生活が走馬燈。そして、最後に海岸へ引き上げたと思った男がマリーナ本人で、その遺体を島民が眺めて終わり、という流れです。
 この流れも現実と幻想の”継ぎ目”が殆ど見えない見事な流れで、(この解釈で)マリーナの想像に当たる部分も、現実パート以上の強度とリアリティで描かれていますね。

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 そしてもう一つの解釈は、ラストシーンはマリーナが引き上げた誰かの遺体を皆で眺めていた、というものです。
 無理がある様に思えますが、実はそういった解釈も問題なく出来る文章となっています。ラストの中の
”彼らはそんな男を見て、どこにそれだけの力が残されていたのだろうと不思議に思った。”
は息子たちの主観に過ぎず、マリーナが引き上げたと思っていなかった、とも言え、更に、
”島にいるのは彼らだけで、彼らと海の間に存在する見慣れないものと言えば、目を大きく見開いている死体だけだった。”
これもまた、マリーナが既に島民の一員となっており、皆にとって見慣れた存在であれば可能な解釈となっています。
 何故一見無茶な論理展開を繰り広げるのか?実は作中にこんな言葉があります。

古い自分を殺す事はそう簡単ではなかった。しかし、陽射しが照付け、大気がぴんと張りつめているような高台にいると、それができそうな気がした。

 マリーナ自身、島への滞在で過去の自分の死と、新たな自分の再生を予見しています。更に以下の様な文章も見られます。

週に三回、キーロス島の正午にキーロス島の上を飛ぶというのは、正午にキーロス島の上を飛ぶ夢を、週に三回見るのと変わるところがなかった。

 いわば、客室添乗員だった頃のテクストが遠い夢であり、島の生活が寧ろ現実というのを示唆している部分もあるのです。
 解釈を読者に委ねたり幅を持たせるのは現代文学の特徴ではありますが、コルタサルはテーマやモチーフ、手法が見事に絡み合い、重層的な効果を生み出すのが特徴です。日常からの脱出と島での理想の生活。それを表現するための走馬燈の系譜に、再生の為には必ず一度死を経験する、という死と再生のモチーフの融合がこの「正午の島」に見られると思います。

 ギリシアやローマ時代の物語、あるいはシェイクスピア、トマス・キッドなどエリザベス朝に産み出されたプロットは数多く定番となっていますが、新たな時代の名手に掛かればそれも生まれ変わり、新たな傑作となるケースが多いですね。革新的&パイオニアと言われる人物程、とても古典へのリスペクトや知識が深いのは間違いないと思います。
 では今宵はこのへんで(・ω・)ノシ

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