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65 純旅行あるいは生きること

 未だかつて人類の誰も行ったことのない旅というものを書かなければならない。

 というのも、世界広しといえど、さすがに数千年数万年も経てみれば情報というのは敷衍するもので、実際に行ったことのあるなしに関わらず、ともあれ記事としての旅行記というものには真新しさがなくなる。ここ数百年来よく読まれてきた架空の土地にまつわる観光案内や旅行記なども、昨今は衰退が著しい。今となっては薬物という古典的な手法によって認識の新しさを求める者が増加の傾向にあり、歴史は繰り返すものであるというこれもまた幾度となく繰り返し説かれた箴言の通りの状況が案の定繰り返されようとしている。

 このような閉塞状態にあって、真に清新な旅とはいかなるものか。これを考えるにあたっては、旅という行為の根幹からたどる必要がある。

 そもそも旅とは何かと問うたとき、「どこかへ行くこと」であるという点が挙げられる。これを本質とし、清新な旅の可能性(あるいは不可能性)を提示することを本稿の目標としたい。

 第一に、これを素朴に空間的移動と解した場合、以下のように言い換えることができる。つまり旅とは、「任意の地点Aから地点Bへの移動」であると。そしてわれわれが通常語るところの旅とは、AB間の移動における出来事のヴァリエーションに終始する。移動における見聞を旅の内実とし、これを書き表したものがまさに旅行記と呼ばれるわけである。

 つまりどこか遠い異国へ赴くことだけが旅行なのではなく、自宅から近所の河原への散歩であれ旅と呼べるのである。身近な移動に対して注意を向けることで日々を旅人のように清新な心持で過ごすという行いが流行を見せた記録がある。それこそメーテルリンクの「青い鳥」のように、人々は大袈裟な旅行を止め、近所の散歩や生活用品の買い出しといった身近な日常に幸福を見出したのである。恐らくだが、調べればそうした流行はそれ以前にも繰り返されてきたことだろう。

 こうした潮流を汲みつつ、われわれが決定的な転機を迎えたのは一五〇年ほど前のことである。言うまでもなく、旅行家ススンナト・レナルテセカニの一連の活動がわれわれに与えた影響は大きい。「純旅行」と氏が呼んだそれは、わずか一歩を踏み出すことに始まり、そして終えられる。移動という行為のもっとも純化した在り方が「一歩を踏み出す」という行為である、と彼は言う。呼吸、拍動、重心の移動、足裏の接地の圧、衣擦れの音から、脳裏に浮かぶ想念まで、その一歩を踏み出すまでに看取されうるあらゆる印象に注意を向けることに眼目がある。つまり、今立っている地点Aから一歩を踏み出した地点Bまでの移動における感覚印象のすべてに注意し、そこから認識の豊かさを可能な限り引き出すことで、たった一歩の歩みを旅行と成らせしめるという試みである。

 当初こそ奇をてらったものとして批判にさらされ、また難解なものとして不理解の憂き目に遭ったこの試みも、理解のある評論家の擁護や、旅行者の賛同により業界において一時代を築きあげた。とはいえ、今もってその価値が人口に膾炙したとは言いがたい。言い換えればそれは人々が今なお旅行における既成概念に支配されているということであり、氏の標的とはまさにわれわれの固着した概念そのものにあったと見ることができる。

 先に挙げた「純旅行」とはあくまでもわれわれに認識の変容を迫る一つの入り口に過ぎない。ここで第二の解釈について触れる必要があるだろう。つまり旅が「どこかへ行くこと」であるのなら、これを時間的移動と解した場合、以下のように言い換えることができる。つまり旅とは、「任意の時点Aから時点Bへの移動」であると。そしてわれわれは常に時点を移動するものであり、今というのは移ろってゆく。つまり「純旅行」による感覚への注視を極めた暁には、われわれはおよそ生のすべてを旅と呼べるレベルにまで昇華することができるのである。

 氏自身が引用する例として以下の詩人、作家、哲学者の一節などは純旅行の先鞭をつけたものと言える。


 想像すれば、私には見える。わざわざ旅などして、それ以上なにをするというのか。感じるために移動しなければならないのは、想像力が極度に脆弱な人間だけだろう。
(不穏の書:フェルナンドペソア:澤田直訳:思潮社:p173)


 深いところへ降りていくには、遠くへ旅をする必要はない。自分の家の裏庭でできることだ。
(反哲学的断章――文化と価値:ルートウィヒ・ウィトゲンシュタイン:丘沢静也訳:青土社:p143)


 そういった旅行は、もう何世紀も前にとりやめられました。それはたしかにすばらしいものでした。しかし、われわれは、決して、『ここ』と『いま』とから逃れることはできませんからね。
(砂の本:ホルヘ・ルイス・ボルヘス:篠田一士訳:集英社:p117)


 いつの日か、われわれは自分の目標に到達する。――そのあかつきには、自分がどれほど長い道程を辿ってきたか、誇らしげに語るだろう。実際のところ、われわれは旅路にあるという自覚がなかったのだ。われわれはどこにいても我が家にいるような気分であった。だからこそ、ここまで遠くにやって来られたのだ。
(喜ばしき知恵:フリードリヒ・ニーチェ:村井則夫訳:河出書房:p275)


 われわれが旅行するのにあたって、物理的移動を必要としないことはもはや明らかである。こうして生そのものが全的に旅となり、これが清新さを欠いているわけがないことも理解されようものである。

 なぜなら、生とはわたしの生であり、あなたの生であるのだから。そこに見るべきものがあるかどうかは、すべてあなたに掛かっている。

 したがって「未だかつて人類の誰も行ったことのない旅」というのは、つまりこの旅であり、だからその旅である。そしてそれは、示すことができはすれ、つまるところ、語ることができないだろう。

 おそらくこれが最も核心的であるとともに、色褪せぬ清新さを備えた唯一の旅行論であり旅行記であると付言して筆を措こう。

 わたしが書けることはこれ以上なく、この先はあなたの領域となる。

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