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飲食から介護業界へ異業種転職。「一度料理の仕事をしたら抜け出せない」は本当か  #飲食を辞めた人

「フランスで修業し、帰国後はホテルでフレンチのシェフをやっていた友人がいます。『お客様のための料理が作れない。利益優先なのが嫌になった』って、今は介護職に就いているんですが、お話聞いてみますか?」

「飲食を辞めた人」にお話を聞いてみたい、とツイートした私に連絡をくれた知人がいました。

どんなことが嫌になったのだろう。料理の世界に戻りたいと思うことはないのだろうか。料理が好きで飲食へ入ったのに、純粋な気持ちが削られていくのが辛くて辞める方も多いのだろうか。

聞いてみたいことが膨らんできたので、紹介してもらうことにしました。(取材日:2020年1月下旬)

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ジーンズにTシャツ、ブルゾンといったラフな服装で待ち合わせのサイゼリヤに現れた男性は、山田雄一さん(52歳)。がっしりとした体格ですが、物腰が柔らかく、穏やかな印象を受けました。「介護で鍛えられて、実用的な筋肉がついているのかな」とぼんやり思ったのを覚えています。

ドリンクバーからお互いに好きな飲み物を用意して、まずは料理人になった経緯から伺うことにしました。

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学生の頃、飲食店でアルバイトしていた山田さん。そこで料理の面白さに気づき、卒業後の進路を料理人に定めました。「でも、フランス料理を選んだのは不純な動機なんですよ」と笑って話します。


「僕はクリスチャンとして育ったので、キリスト教のルーツであるヨーロッパを見てみたいという想いがありました。旅行も好きだったし、フランス料理の仕事をしていれば、いずれ本場へ行く機会もあるんじゃないか…と」


高校卒業後、18歳で文京区にあるフランス料理店へ就職。今はもうなくなってしまいましたが、風情のある一戸建ての古い洋館だったそう。

そこで8年。山田さんは疲れていました。朝9時半に入って、昼の賄いを食べたら2時間ほどの休憩。その後は夜11時までノンストップで働く。休みも少なく、給料はいつまでも上がらず10万程度。心身ともに苦しい暮らしが続いていました。

「最初は『こんな生活ありえない』って、半べそかきながら電車で帰っていましたね。当時は飲食に従事するならこれが普通。"ブラック業界"っていう考え方すらなくて、納得しなくちゃいけないような雰囲気でした」


タテ社会で上下関係も厳しかった。『こういう人間と一緒にいると自分もダメになる』と不安や嫌悪感があり、環境を変えたい気持ちが大きかったそう。フランス留学を考え始めます。

「表向きは料理の勉強ですが、できればフランスで就職してずっと生活していきたい。そのくらいのつもりでいました」

しかし、フランス在住経験のある知人に相談しても「外国人が仕事をするのは無理」と一蹴されます。20年前はまだ、海外修業への道は厳しいものでした。それでも諦めきれず、調べながらつたない仏語で7店に手紙を書き、唯一OKが出た南仏のフレンチレストランで働かせてもらうことに。

地中海の小さな港町“カシ”にあるそのお店は、新鮮な魚を使ったブイヤベースが評判でした。フランス発祥のレストランガイド『ゴ・エ・ミヨ』では20点満点中17~8点の採点を受けたこともあるそう。

語学学校に通いながらの料理人生活。言葉がわからなくても続けていくうちに徐々に仕事が面白くなってきたそう。和気あいあいとした雰囲気の中で働ける環境、充実した毎日を送っていました。

私が「日本とフランスで違ったことって何ですか」と問うと、「料理人の立場。全然違うんですよ」と返ってきました。

「変な言い方かもしれないけれど、料理は結局水商売。料理人って日本では社会的地位が低いんですよね。フランスだと逆に、料理人は一目置かれる存在。外国人の僕でも、料理人というだけでホームパーティーに招かれたこと、何度もあります。最初は『作ってくれ』と言われるのかなと思っていたんですが、ご主人自ら自慢の料理や自信作を振る舞ってくれる。
大事にしてくれるんだな、って感じるくらい温かな優しさが伝わってくるので、日本にいた時と気持ちのモチベーションが変わってくるんです」


しかし、居心地の良いフランス生活は3年ほどで終わりを迎えます。語学学生としてはそれ以上いられず、新しく就労ビザを取るのも難しかったそう。

「働いていた店のシェフも『抜けられたら困る』と言って弁護士に相談してくれました。でも結局、手続きにはお金がかなりかかると。それで仕方なく、帰国することにしたんです」

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29歳で帰国。フランスで知り合ったシェフの紹介で、山田さんは都内に新しくできるシティホテルのフレンチレストランに入ります。フランス修業経験ありということもあってか、契約社員ばかりのスタッフの中で、唯一正社員としての高待遇で迎えられました。

しかし、これが良くなかった。

「後から聞いたのですが、僕が入ることによってシェフが辞めさせられたようなんです。もともと少し問題がある方で、辞めさせる口実を探していたのかもしれません。表面的には仲良くしてましたけど雰囲気はギスギスしていて…。フランスでは楽しく働けていたのに、急に地獄の生活になりましたね」


拘束時間は長いが、ホテルだから福利厚生はしっかりしている。給料も、最初に勤めた街場のレストランよりはずっと良い。

そう思って2年奮闘します。ある時『ああもういい、自分はいやだ、僕はもうやめた方がイイだろう』と気持ちが途切れ、総料理長に伝えました。南仏の田舎町でのびのびと働けていたあの頃に戻りたい。すると『だったら長野で料理長を探しているから行くか』と、長野にあるリゾートホテルを紹介してもらうことになりました。

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ここでは料理長としての待遇でしたが、行ってみれば今度は契約社員。この時は「ゆくゆくは正社員になれるだろう」と楽観的に考えていたそう。ただ「同じホテルでも、都心のホテルと地方のリゾートホテルではまったく違いました」と山田さんは言います。

そこは企業の保養所を一般開放したホテルで、シーズン中は数十人ごとの団体客がどんどん来ます。山田さんの配属は200人まで収容できるメインダイニングだったので、これまでやってきたようなフレンチのサービスでは成り立ちません。結果的にバイキングになる。家族連れも多いので、お子さんが喜んでくれるような料理も考える必要があります。

リゾートホテルは春から秋の繁忙期は休みを取るのが難しく、冬の閑散期は繁忙期の分までスタッフに休暇を取ってもらわないとならない。少人数で回すため、料理長にその分の負担がかかってくる。料理以外の管理や経営面の仕事も増える。休日どころか休憩時間もままならない日々が続き、山田さんはどんどん追い込まれていきます。

「ホテルで言えば、売上の半分は料理。でも料理長は会社の中では中間管理職くらいのレベルなんです。なのにスタッフが足りなくても増員が認められず、2ヶ月ほど休みなしで働いた時期もあります。現状をいくら訴えたところで、上司からしたら僕は『都合が悪くなったら入れ替えればいいや』という駒のような存在だったのかなって。帰国後働いたホテルで、僕と入れ替わりに辞めさせられたシェフの存在を思い出し、腑に落ちた気がしました」

その後、そこを辞めて別のホテルでも働いた山田さんだが、状況は変わらなかった。心が折れてしまったのは新メニューの試食の時でした。

「上司に試食してもらうんですが、『料理のことは素人だから』と言いつつ、もっと原価を落とせないのかとか、ケチばっかりつけるわけですよ。『お客さんも素人だからわからないだろう』って言われたときに、料理人としての将来に希望が持てなくなってしまいました」


ここでも人手不足が常で、増員を申し出ても叶わない。50人規模のダイニングを2人で回したこともあるそう。事故や食中毒がいつ起きてもおかしくなかった。一番きつかったのは、『休日も自宅待機しておけ』と言われたことでした。

「そのリゾートホテルは山の上にあり、周囲には何もありません。ちょっとした買い物でも山を下りなきゃならないんです。それなのに支配人に「いつでも出勤できるよう自宅かホテルの近隣にいるように」と言われる日が、月8休のうち3日ほどありました。料理長なのに休日すら自分の自由にならない。支配人とケンカして、結局辞めました」

その後、山田さんはホテルを相手に労働審判を起こしました。

「スタッフの精神衛生を考えても『このままではだめだ』と思い、弁護士さんに相談しに行きました。1年半かかりましたが結局、働き方を是正するところまでは届かず…。自分の労働時間の言及だけで終わってしまいました。本当は会社にもう少し分かってほしかったですね」

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飲食業界で働く人は独立を考える人も多いが、山田さんはどうだったのだろうか。

「独立を夢見たこともありましたよ。一時期は本気で考えて、銀行に相談に行ったこともあります。でも、フランス料理店を開くのに最低でも1千万くらいかかるんです。借りるのは絶対ダメだと家族にも反対されましたね。自分の家に資産がないと、店を出せるほどのお金はまず用意できないと思う。普通のサラリーマンでは自己資金すら大変です。苦労して資金を集め、お店を持ったけれど数年で潰れ、払いきれない借金を抱えながら働く――僕が働いていたホテルでも、そういう料理人がよく派遣で来ていましたね」

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ここまで聞いて思わずため息が出てしまった。つらい。飲食業界には希望がないようにも思えてきた。今お店を持っている人は、こうした大変さをクリアしながら辿り着いたのだろうか。尊敬しかない。
丁寧に言葉を選びながら、山田さんはさらに話してくれた。

「今はミシュランで星を取った店だって潰れる時代です。経営手腕と料理のおいしさは比例しない。独立すれば料理のことだけでなく、自分の店の存在をどうアピールしていくかを常に考えて行かなくてはならない。何が求められているか、常にマーケティングも必要です。気が遠くなる道のりです」

料理への愛情、人への不信感、労働環境への絶望。色々な想いにがんじがらめになって、抜け出したいけれど抜け出せない――。

「自分で店を持てないんだったら、サラリーマンとしてこの仕事はいつまでも続けてはいけないだろうと考えていたとき、先輩に言われたんです。『飲食の仕事に一度就いたら抜け出せない、辞めても結局戻ってくる』って。でも僕はもう疲れてしまった。料理を続けるより、ただただ安定的な生活がしたい。その時、飲食はもう辞めようと結論を出しました。先輩の言葉に反発心もあり『絶対戻ってくるもんか』とも思いましたね」

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現在、山田さんは介護士として働いています。すでに8年。6年目には国家資格である介護福祉士も取得しました。

「不安を抱えずに、自分が働きたければいつまでも働けること。法令にのっとった仕事であること。その最低限の基準を満たしていれば仕事内容は何でもいい。今まで趣味らしいこともなく、料理ばかりしてきてしまったけれど、人生の楽しみは仕事以外で見つけようと」

ただ、介護の現場には、汚物の片付けなどもある。これまでとはまったく異なる仕事だが、異業種転職への不安はなかったのだろうか。

「不安はなかったです。汚物の片付けもあるよって面接時にも念を押されたんですが、全然平気ですって伝えました。逆に『料理をキレイな仕事だと思ったら大間違いです』って。料理の仕事も排水溝を掃除したり、腐ったものを片づけたりと、キレイな部分と紙一重じゃないですか。今も実際おむつ交換とかしますけど、最初から抵抗なくできていますね。締めたての鴨の羽根をむしったり、長期休みで忘れていた炊飯釜を開けたりした時の方が衝撃でしたよ」

実際働いてみて、生き返るような想いだったと言う。このあたりから、話す山田さんの表情が明るくなってきた。

「本当に嬉しかった。『1日何時間労働で、終わりが来ること』『1か月先の自分の予定がちゃんと分かること』『働いた分のお給料がもらえること』。これが僕にとってはものすごくありがたいことでした」

“雑用”が仕事になることもカルチャーショックだったそう。

「介護士は医療行為ができない分、注射針のような医療廃棄をするとか、看護助手の仕事をすることも多いんです。いわゆる雑用ですね。飲食店では雑用をして初めて料理の仕事に取り掛かれます。病院ではこの雑用を1日8時間やったら労働としての対価がもらえます。この差に戸惑いましたね。これでお金がもらえるの?って複雑でした」

ただ、今の山田さんの雑用への対応力は、飲食にいたからこそなのかもしれません。

そう話すと山田さんは、「介護の仕事に就いてから、『料理の仕事やっておくと何でもつぶしがきくわよ』と若い時に言われたことを思い出しましたね」と答えてくれました。当時は料理の仕事が好きで辞めることは考えておらず、とくに響かなかったと言います。

「飲食の仕事も、料理するまでの間に色々な雑用に支えられています。下っ端の時はシェフの動きを見ながら自分がどう動くべきかを考えていたし、料理長になったら同時進行の調理をしながら、スタッフの動きや全体の流れを見て仕事していました。今は高齢者への視点や、看護師が求める動きに応えています。飲食で培ったことが活かされているのかもしれませんね」

最後に「飲食を辞めて良かったと思いますか?」と山田さんにお聞きしてみた。

「辞めて良かったと思う。今は病院に勤めていることもあって、自分の体に対するケアに意識が向くようになったし。今もまだ料理の仕事をしていたら、自分の体を気づかう余裕なんてなかったと思うので」

社会奉仕する時間は社会人として必要。ただ、心身ともに疲弊するような状況まで追い込む仕事はしてはいけないと思う。今も料理は好きだけれど、仕事としての未練はない。自分の生き方としては、料理の世界は難しかった――そう話してくれました。


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インタビューを終えた後、山田さんは「明日から高知に一人旅に行くんです。来月は石垣島です」と嬉しそうに話してくれました。今の仕事に就き、休みがきちんと取れるようになったことで、元来の旅行好きが爆発してしまったそう。

「自分の時間が自由に使えることが本当に嬉しい。介護業界も人手不足で大変だけれど、少なくとも自分は勤められる間は頑張りたいと思っています」


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このインタビューをさせてもらったのは2020年の1月。新型コロナウイルスはまだ遠い中国での話で、その数か月後には日本だけでなく世界で猛威を振るうことになるなど、予想もしていませんでした。

コロナ禍で飲食店が閉店してしまうニュースも増えています。そんな状況下で#飲食を辞めた人 を出すのは適切なのかどうか、とても悩みました。聞くことで、書くことで、傷つく人がいるかもしれない。

「出しても良いものか、どう書こうか悩んでいる」と山田さんに相談した時、「ボツにしてくれても構いません」と答えてくれました。

また「最近メディアで鳥羽周作さんというシェフを知り、こんなご時世の中、愛を持ってフードサービスに挑んでる姿に感銘を受けている」とも。

打つ手少ない飲食業界でも、色々な方法で乗り切ろうとしている人がいる。これから少しずつ、飲食店の形は変わっていくのかもしれません。それならば、飲食を辞めて新しい道を見つけた人や、辞めて違う形で飲食に関わる人を取材することで、もう一歩踏み出そうと思ってくれる人がいるかもしれない。


結局、最初の思い立った所へ戻ってきました。今は、できれば書き続けたい、と思っています。

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