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フラワー・オブ・ライフ①

私は井戸の底にいる。
昼間は会社員として働き、夜になるとここへやってくる生活がもう随分長い間…10年以上続いている。

出口も何もない、乾いた場所で居心地は最悪だったが、私が私でいられるのはここ以外になかった。

ある日、突然井戸の底に男がやってきた。

「一緒にここから出よう」

私は怪しんだ。今出会ったばかりの相手が本気かどうかも分からなかったからだ。

「でも、ここから出られますかね?」

世間話のようなふりをしながら、相手の出方を探った。そもそも井戸の壁に、指のかかるところなどどこにもないように思えた。
唐突にその人がパチンと指を鳴らすと、魔法のようにハシゴが現れた。

「簡単なことですよ。はしごに登りさえすればいい」

ハシゴを前に私は戸惑った。そんな簡単に出られると言われても、この井戸は私の棲家だ。ここを出たら私が私でなくなってしまう。

「もし外が楽しくなかったら、またあなたは戻ってきて、好きなだけここにいればいい」

これまでも助けますよと言いながら、井戸の上から手を差し伸べる人は何人か通り過ぎたが、井戸の底まで降りてきたのはその人が初めてだった。
だから私は外に出ることに決めた。
嫌になったら、またここに戻ってくればいいのだ。
ハシゴに足をかけると、雫の落ちる音が聞こえ水の気配がした。躊躇いながらも一段ずつ、はしごの軋む音が鳴るたびに、壁のあちこちから水が染み出した。目を射るように差し込んでくる光を避け、下を覗くと井戸の底に水が張っているのが見えた。

井戸の外に出てからは、長い間井戸を見つめ続けた。水が湧き出る様子を見るのは楽しかった。私はいつからこんなに深く掘ったんだろう。記憶を辿っても、昔のことは水のなかで見た景色のように曖昧だ。だから私は書こうと思う。思い出せる限りを記してみようと。

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私が生まれた家は商売を営んでいた。
砥石や紙やすり、サンダーなど「研磨」にまつわるものを販売している卸問屋だ。
そもそもは戦後、焼け野原だった大阪城近くの土地を奈良の田舎から出てきた祖父が買い求め、商店を開いたことに始まる。
祖父の出身地・奈良の二上山近くでは金剛砂という砂がよく採れ、この砂は大昔から研磨剤として使われていたらしい。
ひとつの家に「店」と「奥」がある商家では、「店」には番頭さんや丁稚が、「奥」には女の奉公人がおり、私が生まれる前は、住み込みで職人さんたちが何人もいて、皆で衣食住商を共にしていたそうだ。
高度成長期の時代。

1980年を少しすぎ、私が物心つく頃には、通いで働く従業員が二人いるだけだった。
なかでも小早川さんという人は、軍隊上がりの祖父に毎日凄烈に怒鳴られていた。

「小早川さんはな、アホやねん」

と、頭の横で人差し指をくるくる回して言ったのは誰だったか。
ヒエラルキーという横文字を使うほど形をなさない、けれど確かな主従関係が、時代が変わっても存在していた。

小学校から帰ると獣のような鼻を突く臭いがぷーんと漂ってくる(私はそれを小早川さんの臭いと呼んだ)。臭いをたどるように店の奥にある工場へ向かうと、人ひとりが入れるほどの大きな鍋から湯気がもうもうと上がり、ムッとする熱気のなかで汗だくの祖父と小早川さんが、せっせと紙やすりを作っていた。
だいたいこんな工程だったと記憶している。

①和紙をミョウバンに漬け込んでから、天日で干す
②◯番◯番と番号が振られたザルの中から適宜、作りたい番手のザルで砂(研磨剤)を濾す
③ぐつぐつ沸いたニカワを刷毛で和紙に塗る
④濾した砂を和紙に均一にかけ、再度薄くニカワを塗る
⑤天日で干す
⑥プレスで圧力をかけ、カットする

この作業を祖父は、小早川さんを怒鳴り散らしながら何十年も愚直に繰り返した。世間ではもうバブルが終わりを迎え、海外からは有名メーカーのサンドペーパーが輸入されていた。
祖父は日本橋に家電量販店ができても、家の隣に高層マンションができても、郊外にホームセンターが建っても、そんなことはまるで知らぬ存ぜぬといった風で、火鉢で暖を取り、庭でゴミを燃やし、手作業で紙やすりを作った。

こう書くと時代遅れで低品質な紙やすりに思われるかもしれないが、昔ながらの紙やすりにはその良さがある。化学を駆使した輸入モノに比べると時間と根気がかかるが、逆に言うと根気よく研磨すれば驚くほど傷のない仕上がりになるそうだ。実際、祖父の作る紙やすりは商標登録され、小学校で使用する図工の教材セットなどに入っていたこともあった。

商売を始めてすぐ、戦後の好景気からの20年ほどは、目が回るほど忙しかった。
祖母も店に出て働いてたので、「奥」には家政婦さんがいた。 家政婦さんは一日三回、曽祖母と祖父母、そのこども達、そして住み込みで働く職人たちの煮炊きをした。エアコンも便利な家電もない時代、職人たちの汗まみれの衣服を洗濯し、皆が黒い足で歩いた床板を雑巾で拭いた。

それは長男である私の父が結婚するまで続いた。
父が母と結婚した時、祖母は家政婦さんを辞めさせたのである。

私立の女子中高一貫校からハワイ大学に短期留学し、花のような人生を歩んでいた母にとって、このことは絶望以外の何物でもなかった。母の肩には、憧れていた“お嫁さん”とはまったく別の重労働がのしかかった。
加えて、長い間闘病していた実母が、花嫁姿を見届けるように結婚後すぐ亡くなったことも母を孤独にさせた。


何よりも商いが優先だった家において、母の時間という時間は、年長者に譲って当然のものとされ、食事・洗濯・風呂・睡眠何もかもが家族の一番最後だった。唯一許された「最初にできること」は、誰よりも早く起きることだけだった。


そんな「家」の奴隷とも言えるなか、生まれたのが兄と私である。


子どもの頃の母を思うと、般若のような顔が浮かんでくる。
母はひっきりなしに怒っていた。何かあると怒り、何もなくても怒った。
教育熱心だった母は、私と兄を英才教育を施す私立幼稚園に行かせ、ピアノを習わせ、オリンピック選手を輩出するような体操教室に通わせた。小学校に上がってからはバレエ、書道、英会話、高学年になってからは理系の塾へと、私のスケジュールは幾多の習い事がレイヤーになっていた。

母は私を愛していた。

ジャンクフードやスナック菓子を禁止し、自然食にこだわり、出汁の素などただの一度も使わなかった。アニメや漫画から遠ざけ、歯並びを気にした母は歯列矯正を5歳からつけさせた。

母は私を愛していた。

食事のマナーを厳しく躾け、特にこぼすこと、汚すことに神経を尖らせた。
少食で食事が進まない私の目の前で、「じゃあもう食べなくてもいい」と、般若の目で私を睨みつけながら、何度も自分の作った料理をゴミ箱に投げ捨てた。
私は泣きながら食事し、泣きながら習い事に通い、泣きながら母の後を追うことしかできなかった。母の期待に応える、他のやり方が分からなかった。


時折、母は私の背の高さまで屈むと、私をぎゅっと抱きしめてこう言うのだった。

「私はな、あんたが一人でも生きていけるようにしたいねん」

母は自分と同じ轍だけは踏ますまいと、石のような心で固く決意していた。
その決意と同じ分だけ「家」を憎んだ。

私の行動規範は、母の期待に沿うことに集約され、母が何で怒るのか、何に神経を尖らせるのかを、何年も敏感にキャッチしながら、私という人間が出来上がっていった。

私は、母の愛と憎しみが描いた結界のようなものの中で育つことになった。



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