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直江飯

直江兼続という人物は欲が薄い人物だったかと思われる。
戦国武将は多くの側室を持ち、子を多く持つ者が多かったが、兼続は側室は置かず、妻は正室のお船一人。(勿論、側室を持つのは色欲だけが理由ではないが)

金についても、こんな逸話。
伊達政宗が珍しい慶長大判を他の大名達に見せている場に、兼続も居合わせた。兼続にも大判が回ってきたが、扇子の上に乗せて眺めているのを、政宗は遠慮していると思い、
「直に手に取って見られよ」
「我が手は政をする手であり、不浄な物を触れることは出来ませぬ」
と答えた兼続は扇子に乗せた大判を、触れることなく政宗へと放った。
金を不浄と言っていることから、金銭への執着もなかった?

食欲についても、
「飯の菜は山椒が三粒あればいい」との言葉。
美食など興味なし。
それならば、兼続好みの飯を作ってみよう。


材料

山椒水煮  大匙2
米     2合
醤油    小匙1
出汁つゆ  大匙1
オリーブ油 大匙1

直江兼続の2回目。前回はこちら。↓

いち早く秀吉に協力してきたことから、上杉家は豊臣政権内で厚遇。
本格的に採掘が始まった佐渡金山の管理を任され、上杉景勝は五大老の一人となり、会津百二十万石への栄転。
恩恵は兼続にも及び、豊臣姓まで下賜され、百二十万石の内、三十万石は兼続に与えよと秀吉は景勝に指示。
秀吉死後、景勝、兼続主従は苦境に立たされる。
次の天下人を狙う徳川家康が戦相手として上杉家をロックオン。
堀秀治や藤田信吉が上杉に叛意ありと告げたことから、国元に帰ったままの景勝に釈明のために上洛せよと家康は命令。


兼続好み?の山椒の実。

これに対する返事として兼続が認めたのが、有名な直江状。
この返書の中で、
上杉家が武具を集めているのは、上方武士が茶道具を集めているのと変わらず、田舎武士の趣味なので捨て置いてくれとか、会津領内で橋や道を整備しているのは謀反の準備ではなく、新たな領地の整備であり、本当に謀反のつもりならば、敵が通行出来ないように橋や道を壊すのが道理と述べる。
更に讒言してきた者達を調べずに、一方的に上杉が悪いと決めつけているのは如何かと問い掛け。

直江状の現物は現存せず。よって本当にこんな内容だったかは不明。
道理が通っているようにも読めるが、慇懃無礼とも読める。
家康は後者に受け取り、
「こんな無礼な手紙を受け取ったことがない」として上杉征伐決行。


米を研ぐ。

これが呼び水となり、上方で石田三成が挙兵。関ケ原の合戦へ。
結果、どうなったかは教科書通り。
上杉家は直接、徳川と交戦していないものの、徳川方についた伊達や最上と交戦したことから敵対したと見做され、戦後、大部分の領地を削られる。
会津百二十万石から米沢三十万石に。1/4の石高になってしまったものの、多くの家臣は無禄でもいいとして上杉家に留まる。


材料をすべて炊飯器へ。30分程浸水させてから炊飯。

本当に無禄という訳にはいかず、皆、家禄は削減ということで当然、生活は苦しくなる。そうなると殿様を直に批判することは出来ないので家臣達の恨みは兼続に向けられていく。
直江状なんて手紙のお陰で、俺達は苦しい生活なんだ。
ということで関ケ原後、上杉家中で直江兼続の評価はダダ下がり。
更に兼続の評判が落ちることがありました。
幕府重鎮の本多正信の息子を兼続は養子として迎える。
跡継ぎがいなかったので、妥当な処置のようでも、敵対した徳川の重臣と自分だけはしっかりと結び付いてやがると見る者もいたかと。
しかし、後に奇妙にも見える行動。
その養子、本多政重と縁組を解消。


炊き上がり。

思うにこれは兼続なりの深謀遠慮。
徳川家に敵対した事実は消せないが、その重臣と結び付くことで上杉家の心証を少しでもよくしようと図った。
養子縁組を解消した後、本多政重は加賀前田家に仕官。この時、上杉家臣の中にもそのまま政重についていった者達がいました。
百万石の前田家に移ることで、少しでも彼等の生活を救えればという思いでしょう。言わば円満なトレード。上杉家も家臣を削減出来る。
兼続は身を切る改革を行った。何故なら養子を外に出したことで、直江家は潰れました。
重臣の直江家が潰れることで、上杉家の内所を少しでも上向けようということ。


直江飯

ご飯に混ぜ込まれた山椒の粒が微かな辛みと爽やかさを加える。オリーブオイルを加えたことでコクが出て、味わいもマイルドに。
山椒は一種のスパイス。ということで抗酸化作用に発汗作用。冷え性やむくみ対策になります。
三粒と言わず、何粒でも兼続に食べて欲しいものです。

事実上のトレードやリストラを断行しつつ、新田や鉱山の開発も進め、兼続は米沢を実質五十万石と言われるまでに発展させる。


アレンジとして牛蒡を一緒に炊き込んだバージョン。こちらはオリーブオイルは入れておらず、野趣あふれる味わい。いわばマイルドからワイルドへ。

直江家を自分の代で断絶させたのも、悪名を被るのは自分だけでいいと考えていたのだろうと思います。直江家が続いていれば、一族は当然、家臣達から恨みを向けられる。
米沢の実収を向上させたといっても、百二十万石には及びもつかない。
江戸時代の大半を通じて上杉家は貧しく、上杉弾正少弼と言えば金気のない代名詞として庶民からも嘲られることもあったとか。
それもこれも徳川様に喧嘩を売った直江状が悪いと思われていたことでしょう。
その評価が変わったのは、秋月家から上杉家に養子として入った上杉鷹山が兼続を功臣として顕彰してから。

現在、直江兼続の評価は総じてよいと思われます。これは多分に、漫画「花の慶次」に主人公の莫逆の友として登場したからでしょう。
義を貫いた武士として人気ある兼続。上杉家のために私心なく尽くした人物と私も思います。ただ、自分が信じる道理を強引に押し通す所があったのではないか?
冒頭に紹介した政宗との逸話、そして直江状。相手がどう思うかを慮っていないのではとも思える。
直江兼続が本当に大事にしていたのは義か理か?そんなことを妄想しながら、直江飯をご馳走様でした。

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