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ASOBIJOSの珍道中⑩:給仕補佐に。

 モントリオールのフレンチレストラン『La petite plantation』で、ディッシュウォッシャーとして働き始めてから2ヶ月が経った頃。マグロの料理長がいつも以上に厳しい面持ちで、”一空、ちょっと来て。”と、私を呼び出しました。
 ピカピカに磨かれたグラスや金属の食器がズラリと並んだ大きな広間の片隅に案内されながら、”噂に聞く、カナダの首切りか、、、。”と、嫌な予感が頭をよぎりました。
 ”どうしたんですか、料理長。どうせ悪い話でしょう。”
 ”僕にとって悪い話。でも、キミにとってはいい話。”
 と、悔しげに目を細めました。
 ”近いうちに君は給仕補佐になれるよ。英語も達者だし、なにより、支配人がキミを高く買ってる。あっちはサービス側だからチップも付くし、時給は6ドルくらい上がるんじゃないかな。君はキッチンじゃ使えないから、このままキッチン側にいたってそんな時給になることは当分ないよ。よかったね。”
 戦力外通告、、?でも、昇給なのか?本当にこれは良い話なのか?いや、何か別の思惑があるのかもしれないぞ。
  あれこれ思いを巡らしました。というのも、このレストランは、この2ヶ月の間にもすでに数えきれない数の労働者がクビになっており、突然姿を消したり、役職が上がったり、下がったりと、変化が激しかったのです。
 この奇妙なレストランを動かしていたのは、スニーカーとポロシャツ姿といった、あまりにも標準的すぎる格好で、完璧に客と同化しながら店内をうろちょろするナーバリ夫妻というオーナーと、長い立髪をポマードで固めたメキシカンライオンの支配人でしたが、毎度、人事変更の意図は全く読めませんでした。というのも、オーナーのナーバリ夫妻は常にニコニコとしながらあまりにも寡黙だったためで、逆に支配人のメキシカンライオンの方はあまりにも演技上手だったからです。ある日の開店前の支配人なんかは、テーブルクロスをひらひらと振り回して遊んでくれる給仕人たちと、ノドをグルグル鳴らしながらジャレあっていたかと思うと、その0・1秒後には、突然キバを剥き出して吠え散らかし、給仕全員を整列させ、”おい、ベルトの位置を直せ。お前は香水のにおいが安っぽいし、髪をもっと高く束ねろ。お前のそのタバコ臭い口はなんとかならんのか、お前に話しかけられたらディルもパセリも吸い殻になっちまう。お前は本当に太りすぎなんだから、もっとゆっくり歩け、客が少ない時ほど目立つからな!お前の足音のせいでポーチドエッグが割れちまうんだぞ!!次もしそんなことがあったら、キッチンじゅうのニンニクとハーブのシャワーをお前に浴びせてオーブンに投げ込むからな!!!”と、散々部下を油断させておいてから、徹底的にコキおろすというようなやり口でした。
 すると、その3日後、いつも通りに出勤して食器を洗い始めた私のもとに、ドーベルマンの副料理長がやってきて、こう言いました。
 ”昨日でマグロの料理長はクビになったよ。君は賢いから、わかってるね。私としてはキッチンに残って、一緒に働いてくれたら嬉しいけど、給仕補佐になるのも、君にとっては悪くない”、と。
 何がなんだかさらにわからず、
 ”どうしてクビになったんですか?”と訊きましたが、
 ”ちょっとした言い争いさ。ケーキの上のチェリーみたいなことでね…”、と、肩をすくめたのでした。

 とまぁ、状況はよく飲み込めませんでしたが、その翌日から、私は給仕補佐になったのでした。これからは汚物まみれにならなくて済むぞ。などと息をついたのも束の間、そう甘くはありませんでした。
 午後の2時に出勤すると、ランチ営業の片付けが始まっていました。ダイニングホールは一つ上の階にあるため、洗い物は業務用エレベーターの脇に設けられた棚に集められてきます。給仕たちが器用に手首や両手を使って何枚もの食器を下げてくると、食べ残しをゴミ箱に流し、カトラリー(フォークやナイフなど)をバケツに投げ込み、お皿をプラスチックのカゴの中へ鮮やかに落としていきます。私はそのカゴがいっぱいになったらエレベーターへ運び込みます。カトラリーが入ったバケツも、使い終わったグラスが並べられた大きなお盆も満杯になる直前に運ばなくてはなりません。
 その間、キッチンの使用済みのフライパンを運び出し、シーフードの盛り付けに使う氷も十分に蓄えがあるか、手洗い場の洗剤は十分入っているか、ダイニングホール中央にあるバーのドリンク用の氷と、美しく並べられたオイスターバーの氷の補充、バーに設けられたゴミや使用済み食器の入ったカゴもいっぱいになったら運ばなくてはなりません。
 エレベーターで洗い物を下の階に下ろした後は、階段を駆け下り、それを今度は洗い場まで運ぶのです。それが済んだら、また急いで階段を駆け上がっていかねばなりません。すでに食器が山積みになっているのです。”おい、ニックウ、早くしろよ”、と、給仕補佐のリーダーのスカンクが横で耳打ちをしてきます。”オーライ。”
 もはや、バスケットボールのようなものです。あっちを見て、こっちも見て、少しでもディフェンスの手を緩めたら、もう、手が回らなくなるのです。担いで、運んで。パリーン!と、給仕の誰かがグラスを割った音が響いたら、すかさずホウキとチリトリを持って駆けつけなくてはなりません。トイレに異常がないか、備品が十分にあるのかも、30分に一度は見なくてはなりません。それにトイレは上と下の階に8つもあるのです!そして、給仕たちが裏庭で散らかした吸い殻も掃除し、給仕長から巨大なテーブルを今すぐ運べと言われたら飛んでいき、キッチンが閉まれば、大鍋、まな板、包丁、トレーなどがボンボンボン、と放り投げられてきます。
 そんな調子の肉体労働は、夜中の2時まで続くのでした。腰を下ろせるのは、まかないを駆け込む時だけです。
 ”ニックウ、もうだめだ。”
 と、この日一緒に働いていた、テカテカはげ頭のフクロウがこぼしました。”こんなに忙しいのに給仕補佐二人で回せるわけがないんだ。わかるだろう?みんな、なんでもかんでもわたしたちの仕事にするんだ。今日も何回下へ上へと飛び回ったことか。それでも何かが滞ると怒鳴られるんだ。”と、私は、まかないのマッシュポテトとオングレ(牛サガリ)のステーキを手早く口に駆け込みながら頷きました。
 はげ頭のフクロウは、クビをひょこひょことひねり、大きく瞬きをしながら、”わたしももう50歳さ。バングラデッシュを出て、アメリカで色んな仕事をしたよ。こんな仕事なんかニックウの歳の頃はなんてことなかったね!それからITのビジネスを起こして、結構うまくいったよ。だけど、いつまでも続かなくて、いまは、またこれさ”と、給仕補佐だけが着せられる、お店のロゴがプリントされた黒いTシャツの肩を引っ張りました。
 ”もう本当にたくさんだ。ゆっくり暮らしていくには十分なお金はあるから、もう少し楽な仕事をするよ。ニックウ。いいか。私の歳なんてあっという間だからね。いまにわかる。時間を無駄にしちゃいけない、いいね。”
 と。彼の姿も翌日から見なくなったのでした。
 他の日には、まんまると腹のよく出たカメと働くこともありました。彼は、”ニックウ、来い、見てみろ。このマンションいくらだと思う?”とスマホで写真を見せると、”これはダッカにいる家族のために買ったんだ。”と、小さいながら鋭く尖った歯を見せながら言いました。”お前の歳の頃にはロンドンにいたな。街の掃除。冬は寒いけど、よく稼げたぞ。イタリアでも働いた。カリフォルニアでも、フロリダでもニューヨークでもな。どこも最悪だ。クソだ。クソ。カナダも最低だ!リッチな国のやつらは、自分のことしか考えちゃいない。友達のことも家族のこともすぐに忘れる。それで神のことも忘れちまってる。自分、自分って、なんで自分に命があるのか、もうサッパリわかんなくなっちまってんだよ、あいつらは。ニックウ、お前は神を信じているか?”
 と、言ったそのカメも、翌週には姿を見せなくなり、クビになったらしいという噂が流れるだけなのでした。
 ここはもはや戦場だ。離脱者だらけじゃないか。と、料理人の白ウサギとしゃべりながら階段を上っていると、目の前に、巨大な特注サイズのシャツを着た大熊の副給仕長が立ちはだかりました。
 ”ニックウ、ちょっと来い。”
 白ウサギは、苦笑いをしながら私にウィンクを一つくれると、ぴょんぴょんと跳ねながら厨房へ向かっていきました。
 ”やあ、ニックウ。お前に一つ話があるんだ。”とセールスマンみたいに両手を胸の前で揉みながら大熊は私を見下ろしました。
 ”あのな、お前、どうしてニックウっていう名前なんだ。”
 ”いや、違う。一空(いっくう)だ。”
 ”あぁ〜、そうなのか。なら良かった。ニックウってのはアラビア語で 『Fuck me』 って意味だからな!”と手を叩いて大笑いをしました。
 ”話って、それだけですか?”
 ”そうだ。だってお客さんの前で呼ぶのは恥ずかしいだろう”。と腹をポリポリと搔きながら大袈裟に笑い声を立てたので、私もつられて笑いました。
 ”オーケー、イックゥウ!今日もよろしく頼むぜ!”
 と言うと、私は一つまた深呼吸をして仕事場に戻るのでした。
 そして、この大熊の副給仕長は、この日から毎日、お客さんの前で、高らかに私の名前を連呼するのでした。
 ”イックゥ、イックゥ!早く来て!イックゥウ!"

 
 
 
 
 
 

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