教育では「面白がる」ことが大切

 先日、娘と一緒に公園に行きました。初めて行く大きな公園でした。そこで、娘が遊んでいるのをぼーっと見ていました。そしたら、3才くらいの女の子が、祖父母と一緒に公園に来て遊んでいました。きっと孫の面倒を見てくれているんだと思って、ほのぼのとみていました。その女の子はずっと公園に落ちている木の実を拾って集めていました。めっちゃ集中して黙々と拾っていました。うちの娘も木の実をたくさん拾って遊んでいたので、私もその女の子の様子を見ていました。

 そしたら、その子のおばあちゃんが、その女の子に対して「〇〇ちゃん、せっかく来たんだから、遊ばないの?」と少しイライラした口調で強めに言っていました。このおばあちゃんは、きっと遊具もいっぱいある大きな公園に来たのだから、しっかり遊具で楽しく遊んで欲しかったんだと思います。でも、そのおばあちゃんの言葉を聞いたら、すごく悲しくなってしまいました。おばあちゃんは、孫に遊んで欲しいと思っている、楽しく過ごして欲しいと願っている。でも今の状況からおばあちゃんは、孫は遊んでいないと思ってしまっている。良かれと思って、知らず知らずのうちに、孫の遊び(木の実拾い)を、楽しく過ごせているのを否定しているんです。本当に悲しくなってしまいました。

 でもこれって、学校や教育の現場で日々起こっていることなんです。学校や先生は、これが良いものと決めつけていることが多くあります。自覚的にせよ無自覚にせよ、こうあるべきだと思い込んでしまっていることが多くあります。授業ですらそうです。生徒に、こんな疑問を出してもらいたい、こう考えて欲しいという流れを決めて授業をやっています。もちろん授業に意図する流れがあることはとても大切です。でもそこから脱線すると、先生は、うまくいかなかったと思ってしまいます。それは自分の考えた流れにならなかっただけで、教育として、うまくいっていないわけではありません。逆に教師も気付かないような視点や発想だったかもしれません。自分が考えた流れの遥か上をいくような、生徒の疑問や考えだったかもしれません。それを誠実に、きちんと受け止めることが大切なのではないかと思っています。
良かれと思って相手を否定すること、独善的な見方、こうでないとダメだと思ってしまうこと、それ自体が恐ろしく感じます。本質を見失っていると思います。ではどうすればいいのでしょうか?

 私は、やはり「面白がる」ことが大切だと思います。たくさんの遊具に目もくれず、木の実を拾う子を見て、それを面白がればいいのです。学校でも子どもの多様な視点、考え、疑問、個性を「面白がること」ができればいいと思っています。それが多様な学びにとっても必要だと思います。大人の想定を超える子どもの視点や考えを「面白がる」ことで、相手を認めることができます。相手を尊重できます。それだけでいいと思います。教育者がわからなくていいし、答えを出す必要もないと思います。

 子どもに対して「面白がって認める。」これができれば子どもも救われるし、大人も謙虚になれます。そしてその後で、その本質は何なのだろう?と教育者が考えていけばいいと思います。人を育てるって、すごく面白いですよね。笑

この記事が参加している募集

子どもに教えられたこと

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?