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仕方ない選択

その選択は「仕方なく」だった。

仕方なく選択したことで、早起きが苦手な私が週に何度か、午前5時30分発の電車に乗ることになった。

向かう場所は、早朝のアルバイト先。ホテルの朝食会場である。


私の本業はフリーライター。年齢は52歳。ついでに言うと独身女性である。

仕事の中心は対面でインタビュー取材をして原稿を書くこと。なので、コロナ禍では仕事が激減した。人に直接会うことが制限されたからである。

おまけにコロナ禍の真っ最中にメインの取引先だった出版社が倒産したので、私は見事にダブルパンチをくらった。

それでも、この3年間は給付金などがあったから、なんとかなっていた。

しかし今年5月、ついになんともならなくなった。コロナ感染症がインフルエンザと同様の扱いになり、特別な措置がなくなったからである。

特別な措置がなくなっても、コロナ禍で吹っ飛んだ仕事が戻ってくるわけではない。

私は人生で何度目かのピンチに立った。

背に腹は代えられない。私は本業のライターとは別のアルバイトを探すことにした。スマホでちょっと検索してみると、ネットで申し込めるアルバイトがたくさんあった。

「高時給!日払い!」

「明日から働けます!」

「簡単なお仕事です!」

仕事を探している者にとっては、魅力的な言葉があふれている。それらに、ボタンひとつで応募することができる。けれども、できるのは「応募する」ことであって「採用される」とは限らない。

私には「ご希望に沿えず」という返信メールがたくさん来た。

最初こそ「私の何が悪かったのだろうか……。年齢かな?職歴かな?」と悩んだりもした。しかし、何度も何度も「不採用」を繰り返されているうちに、私はもう、動じなくなった。

世の中は、そういうふうにできているのだ。

ボタンひとつで「応募する」ことはできる。アルバイトを募集する代理店や派遣会社にとっては、たくさんのクリック数が集まるということだ。

そうか。集めたいのはクリック数なのか……。

そんな風にクサっていたとき、偶然に見つけたのが、ホテルの朝食会場でのアルバイトだった。

幸い、私は学生時代にホテルの宴会場でアルバイトをしたことがあった。その経験を書いて、朝食会場のアルバイトに応募してみた。

すると、すぐに採用された。

びっくりするくらいすんなり採用されたのはよかったのだが、不安なことがひとつあった。

私は早起きが苦手なのである。

フリーライターという仕事柄、締め切りに間に合わせるために深夜まで原稿を書くことがよくあった。さらに、私はお酒が大好きだから、完全に夜型の人間なのである。

それなのに、よりにもよって早朝のアルバイトを選ぶなんて……。

ちょっぴり後悔したが、もう遅い。


最寄り駅を午前5時30分に出発する電車に乗って、ホテルの朝食会場に着いた。そこは座席数が100席を超える広い会場で、朝食はお客さまが自分で好きな料理を取るビュッフェスタイルである。

そこでの私の仕事は、お客さまが食べ終わった食器を片づけ、テーブルとイスを拭いてきれいにすること。片づけた食器は、会場の端っことつながっているキッチンの洗い場へ運ぶ。

そこで使われている食器は、プラスチック製の皿などは軽いが、陶器の茶わんやガラスのコップなどもあるので、それなりに重くなる。それらをまとめてトレイに乗せて、背筋を伸ばして速足で運ぶ。

背筋を伸ばすのはホテルだから、である。ホテルのスタッフが猫背ではカッコ悪いではないか。

とにもかくにも、広い会場を端から端まで、食器を片づけたり運んだりした。しかも、そのホテルの朝食会場はめちゃくちゃ忙しく、キッチンの洗い場との間を何度も何度も往復しなければならなかった。

常に速足で食器を運ぶ私に、とある先輩スタッフがこう言った。

「ここさ、会場が広いから1回の勤務で1万歩以上歩くときもあるんだよ」

私は耳を疑った。1回で1万歩?それが距離にすると一体どのくらいなのか、見当もつかなかったが、「1日1万歩歩くと健康になる」というようなことを聞いた覚えはあった。

だからその先輩スタッフの言葉で、ちょっぴり考え方が変わった。

そうか。アルバイトじゃなくて、運動しに来たと思えばいいんじゃない?

背筋を伸ばして速足なんて、まさにウオーキングではないか。ちょうど時間帯も早朝だから、ジョギングの代わりにここでウオーキングをしていると思えばいいかもしれない。

今まで、ダイエットのために朝のジョギングをやってみようと何度も試みたことがあったが、ほんの数日間走っただけで、全く続いたことがなかった。

そういえば、コロナ禍で仕事が減り、外出も減り、増えたのは体重だけだった。そうか。ダイエットしに来ていると思えば、早朝出勤もツラくないかも……。


早朝のアルバイトをウオーキングと思うようになってから、あっという間に3か月が過ぎた。

コロナ禍で増えた体重は減り、アルバイト代が入ったので収入は増えた。さらに、この3か月の間にライターとしての新たなご依頼が舞い込むようになり、本業の仕事も増えた。

アルバイトがある日は、早朝に身体を動かしてから本業に臨む。するとなんだか、普段よりも頭の回転がいいような気がする。筆が進む。というか、パソコンのキーボードを叩くスピードが速い。言葉がすんなりと浮かんでくる。

実は今日も、早朝のアルバイトをしてきた。その勢いでこの文章を書いている。

人生には、仕方ない選択をしなければならないときがある。

52歳の私は、これまでの人生で何度も、仕方ない選択をしてきた。就職活動に失敗したとき、恋人から別れ話を切り出されたとき、勤めていた会社をクビになったとき……。

けれどもその選択が、思いもよらない結果をもたらしてくれることもある。

だから仕方ない選択は、きっとどこかで私を見ている神様が、自分では気づかない小さな可能性を見つけて、そちらを選ぶように促したのだ。そして、その可能性を広げてくれたからこそ、思いもよらない結果になったのだと、思うことにしている。

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