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好きになるものを選べない

 最果タヒの「きみの言い訳は最高の芸術」を読んでいて、「どうして、好きになるものを選べないのだろうか」ということばが出てきた。
 たしかに、「好きになる」ということはほとんど意識的に行われるようなものじゃなくて、おさないときほど無意識にちかい。好きになるという無意識によって好きであるという状態になって、そういうじぶんが何らかの人生を生きているというわけにはなるのだけれど、これってよく考えたら理不尽じゃないだろうか? おさないときの好き嫌いは後々の人生にけっこう大きな影響を与えているというのに、それは意識的に選ばれたものなんかじゃないって、どれだけそれがしあわせな人生でも悲劇的な色をつよく感じてしまう。

 ぼく自身、「どうして◯◯を好きになってしまったんだろう…」っていうメンヘラ女子みたいなことをよく考える。それは例えば物理や数学のことだったりするし、文学のことだったりする。ひとによっては「好き」と「仕事」をきちんと分けてバランスの良い人生を歩んでいるし、実際にはそういう友だちの方がまわりには随分と多い。
 たとえば、「”好き”を仕事にしない」、あるいは「仕事にしようとしない」という発想がよく分からない。すくなくともぼくにとっての「好き」になるものはいつだって追求の対象であったし、それを妥協なく追うためにはそれなりの時間やコストが必要になってくる。じゃあそれを続けるにはどうしたらいいんだろう…って考えたら、答えはひとつでそれでお金をもらうしかない。そういう思考回路になる。それができない「好き」はもうほとんどストレスでしかない。

 ひとによってはこの問題を「才能」ということばのあるなしで片付けるけれど、ぼくはそういう話が好きじゃない。ただ便利なのですこしだけ使うと、「何を好きになるか」と「才能」というものは綺麗に一致してくれないのが人生というやつだ。「好きになるもの」と「持っている才能」のあいだになにひとつ関係がなければそれはそれで健康的におもえるけれど、どうやら多少の関係はあるらしいからたちが悪い。いわゆる「好きなものほど上手なれ」というやつだ。
 これを飲み込むと結局は「好きになる」というものこそが「才能」に一致してしまって、じぶんにはどうしようもできな的な理不尽がよりいっそう強調される。理不尽とは、成功とか失敗の結果のことじゃなくて、じぶんの力でどれだけ融通がきくものか、ということであって、好きになりたかったものを好きになれなかったり、好きになりたくなかったものを好きになってしまうこともありえてしまうという事実は、やっぱりつらいことなんじゃないか?

 いざ父親になってみると「子どもが将来何を好きになるか」というのは割と重要な問題だ。ぼくはといえば、「じぶんの知りたいことを教えてくれるひと」がまわりに誰もいなかった。実家には活字なんて「五体不満足」と「だから、あなたも生きぬいて」くらいしかなかったし(そういえば1990年代ではどこの家庭でもこの2冊があったようなきがする)、物理や数学の不思議な話のカラクリを知るにはじぶんで読めもしない本を読みとかなくちゃならなかった。
 大学生になって、ある程度じぶんで本を読み解ける学力が身についたり、ちょっと信じられないくらい賢いやつとか教養の深いやつと付き合うようになって初めてじぶんの「学のなさ」なり「好奇心の狭さ」を自覚した。そういう自覚が芽生えたときに、小さい頃にもっと色々知っておきたかった、できるならばぼくが本当に知りたいとおもったことを教えてくれるひとが近くにいて欲しかった、とおもうようになった。
 そういうこともあって、ぼくはできるだけ息子の「なんで?」に答えられるようにはなりたい。なにに興味を持つかっていうのは理不尽でどうしようもないことだけれども、その理不尽に耐えるには興味を広く持って、ひとつでも多い選択肢を持つことだとおもう。そしてやっぱりどうせ好きになるならはやい方がいい。だいたいのことはいつからでも勉強できるとはいえ、頭のやわらかいうちにすくなくとも経験しておくことは損にはならない。ものによっては好きになるのがおそかっただけで、どれだけ願ってもそれに一生を捧げることができなかったりするから。子どもと遊んでいるとき、そんなことをよく考える。

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