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本人は気づいていない、エリートたちの上から目線が、放射線のように弱者の心を傷つける

 タイトル写真はちょっと前の横浜の夜景です。
今日、横浜でもディープな街、寿町で「ハートフルを探す」というドキュメント・バラエティー番組が、名古屋の民放で放送されました。横浜は学生時代から馴染み深い街なので、見させていただきました。
 寿町は、東京でいう山谷、大阪の釜ヶ崎、のような、いわゆる簡易宿泊所が多い、どちらかというとドロップアウトした人が多く住む街です。
 番組は、局のディレクターが一人でカメラを持ち、ちょっと危ない雰囲気のある寿町で、ぶっつけで街の人々に取材し、「ハートフル」な人とのふれあいや物語を見つけ出すドキュメントを、ヒコロヒーというそこそこ若いタレント(お笑い芸人)さんがスタジオで見ながら、リアクションやコメントしていくという仕立てです。

 ボクが20代の頃に、間違って寿町界隈に迷い込み、とても恐い目にあった経験があります。いわば、様々な事情で流れ着いた、社会の底辺に暮らす人々の町です。そこに、カメラ(おそらく小型のデジカメ)を持ったディレクターが、テレビ局を名乗り一人で取材に入り込むのは、なかなか勇気のいることです。
 実は、そのディレクターをボクも少しだけ知っており、調査報道等で色々な賞を貰っている、今どきのテレビ局員では珍しい(失礼)、若いながらも気骨のある優秀なテレビマンです。プロデューサーも兼ねているので、今回も自分の企画で寿町の潜入取材にチャレンジしたのでしょう。

 想像通り、住民の方から「何を撮ってる!カメラを壊したろか!」というような罵声を浴び、逃げるシーンもあります。しかし、やさしい人や、人生を前向きに楽しんでいる人にも出会い、その人たちのそれぞれの生活実態や抱える事情を、丁寧な取材で描き出していきます。

 取材過程で、着物を着て似顔絵を描く、ちょっとユニークな男性のお年寄りに声を掛けられ、その方の自宅に招待されます。絵を描くのが好きだというその男性は、生みの母がこけしの絵入れを生業なりわいにしていたといい、その母親を思い出し、涙ながら、その肖像画をクレパスで描いていきます。
 そして元旦の夜明け前、ディレクターは男性と二人で初日の出を見に行きます。男性は「初日の出の太陽のように、ろうそくが消える前、パッと大きく燃えて輝くんだ。」と、自らの想いを語り、ドキュメント部分は終わります。

 その映像を観終えて、最後にヒコロヒーが感想を語ります。「彼はもう十分に芸術家ですよ。

 え?
 ボクは彼女のその言葉に、何とも居心地の悪い違和感を覚えました。決して老男性の人生や絵を批判しているわけではないし、それどころか、彼女なりに絵が好きな老男性の生き方を肯定し、敬意を表しているつもりなんだと思います。
 しかし、ボクの中では、彼女の中に、その老男性の人生を上から俯瞰して評論するような「おごり」の気持ちを感じてしまいました。
 芸術家は偉くて、元ホームレスは人間としてダメなのか?そもそも若い彼女から、人生の大先輩であるその老男性の人生を総括する時の呼び方に「彼」という評し方はないだろう、と感じたのです。

 彼女には悪意は決してないし、老男性をバカにもしていないと思います。でも、彼女の中の無意識が、すでに上から目線だったのではないでしょうか。

 これは、彼女に限らず、エリートのプライドをもって生きてきた(社会の中で勝ち組として生きてきた)サラリーマンの成功者などにもよくあることです。本人は全然そんなつもりじゃなく、逆に善意や思いやりのつもりで言ったりしたりすることが、言われる側が弱者だった場合、じわじわと心を傷つけることが往々にしてあるのです。それが悪意や軽蔑ではなく、善意を装うから「目に見えない」だけに、まるで放射線のように心を傷つけるのです

 そもそも「ハートフル」を、寿町という社会の底辺の人々が住む街で探そう、という企画の時点で、そこに「テーマと被取材者との落差があって面白い」のでは、というテレビ的意図が、「上から目線はない」と言い切れないところがあります。これを下請け会社やフリーのディレクターにやらせず、企画した本人が身体を張って現場取材をした点は、テレビマンとして極めて真摯で真っ当だと思いますが。

 「月曜から夜ふかし」も、よく赤羽や北千住などの酔っぱらいの多い街に行き、ちょっとユニークな人を取材しては、ディレクターやナレーションが突っ込みを入れて笑いをとりますが、ボクならこの方が傷つきません。多分、おそらくですが、同情なんかまっぴらなんですよ。笑い者の方がどれだけ傷つかないか。
 丁寧な言葉で取材して、やさしく接し、本音を聞き出し、「いいお話」にして見世物にする(テレビで取材するという事は、文字通り見世物にするということです)方が、ボクには悪質に思えるのです。
 
 ボクは、この「ハートフル」な番組やディレクター、ヒコロヒーさんだけを批判しているのでは決してありません。問題の本質はもっと広く大きく奥深いのです。

 ボク自身の話で恐縮ですが、自分が会社を辞めて肩書が無くなったとたん、大変な目に合ってきました。一歩足を滑らせたら、そういう街で暮らすことになってもおかしくない状況に、精神的に追い込まれたこともあります。だから肌感覚で分かるんです。

 そこそこのいい大学を出て、上場企業のような会社に入り、社内で闘いながら出世街道を進み、会社の上層部にのし上がってきた人、いわゆるエリートは、なかなかそのプライドが抜けないものなのです。
 そのプライドほど、世の中で扱いにくいものはありません。しかも本人が気づかないのですからタチが悪い。定年退職しても、そのプライドは心と頭の中にサビのように残ります。

 エリート同士や同じ会社の部下たち、あるいは同様な立場の世間の人たち同士では決してわからないと思います。
 しかし、相手が社会の中で挫折し、もがき苦しみ、その結果として受け入れざるを得ない境遇にいる人たちと接する時は、いくら善意で思いやりをもってその人に接したと思っていても、その言葉の端々に上から目線の放射線が出てしまうんです。
 
 そもそも「思いやり」は、相手の状況や心の中まで想像できる場合にのみ「思いやり」として機能します。でも、その経験がない人には、なかなか弱者の境遇や気持ちを想像することは困難です。
 せっかく社会に出ても、上司やエリート社員たちの「上から目線放射線」にやられ、自分を信じられず、自己否定にさいなまれ、精神的に病んでしまう若い人たちがいかに多いことか。

 昔のドラマに、貧しい子どもが叫ぶこんなセリフがありました。
「同情するなら金をくれ!」
その気持ちが、ボクには痛いほどわかります。

 世のエリートのみなさん、その賢い頭を「想像力」の方にもう少し使ってあげて下さい。世の中の仕事は、あなたたちエリートのみなさんだけが回しているモノでは決してないのですから。


文責:birdfilm  映像作家:増田達彦


 


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