虞美人草②夏目漱石
漱石のこの小説を読んでいると、しばしば時が止まる。
単調な日常の中で、特別な瞬間は、
スローモーションでそうっと、克明に描かれる。
日常と同じスピードでは通り過ぎない。
漱石がそのように描くことで、
あの瞬間はやっぱり特別な体験だったのだと再認識させてもらえる。
三 (甲野と宗近、 雨降る宿にて)
宗近が、宿の隣家の縁側に出ていた娘さんのことを、別嬪だった、と甲野に話している。小野は来いというのに来なかった、文学者は霞に酔ってばかりで、性根(しょうね)がないなどと話している。
宗近は、丹前の下に狐毛の胴衣を着た。その袖無は手製か、と甲野が尋ねる。宗近は、皮を友人から貰ったのを、妹の糸が表をつけてくれた、と答える。甲野は、糸さんは藤尾と違って実用的にできてるからいい、と答える。
二人は、宗近の妹の嫁の口があるのか、など話している。
宗近は甲野に、それより君は女房を取らないのかと尋ねる。甲野は食わせられないと答える。宗近は、家を継げばいい、君がハッキリしないから藤尾さんが嫁に行かれないんだろうと聞く。甲野は、行かれないんじゃなくて行かないんだ、と答える。
宗近は鼻をぴくつかせ、鱧(はも)の匂いがする。また鱧だな、もう帰ろうかなどと話している。
(…京都の好きな母が鱧のことをよく口にする。関東ではあまり売っていない。夏に京都へ行った時は食事制限をしていたので、京都駅の伊勢丹のデパ地下で各自食べたいものを買って宿に持ち込んだ。母は鱧寿司を買った。一口貰ったけど、イマイチ美味しさを理解できなかった。)
(鰻は好きだけど穴子はそんなに好きじゃない。鱧の湯引きをわさび醤油で食べたけど、よく分からなかった。どこかで美味しい鱧を食べてみたい。)
(美味しい鰻で満足しているぐらいで十分かな)
小野は、帰ってもいいが、鱧ぐらいなら帰らなくてもいいと言っている。
宗近の嗅覚が鋭い、という話から、叔父もそれぐらい嗅覚が鋭かったら外国で死なずにすんだかも、と甲野が話している。
叔父の遺品の金時計について、僕にくれ、と宗近が言う。僕もそう思っていた、と甲野が答える。今頃、藤尾がまた玩具にしているかもしれない、と甲野が答えると、構わない、それでも貰おう、と宗近が笑って答える。
四 (小野の部屋)
小野の生い立ちが語られる。
世界は色の世界だ、と繰り返し語られる。
絢爛を通って平淡に入るのが自然の順序だという。赤ん坊は赤いべべを着せられ、母があり、姉があり、菓子があり、鯉(こい)の幟(のぼり)がある。顧みれば顧みるほど華麗(はなやか)になるのが常なのに、小野さんはその逆だという。暗い土から、明るいところへ、薔薇の花の蕾へ。論文を、それも博士論文を書こうと決めている。博士論文は金色だという。博士の傍には金時計が天から懸(か)かっている。藤尾さんが手招きをしている。心の中で、そんな明るい未来を描くこともあれば、残酷な未来を描くこともある。
女中が、お手紙です、と障子を開けて封書を置いていった。
(一つの封筒は、人をこんなに逡巡させるものなのか。開封するまでにこんなに人を苦しめたのか。今まで、きっかけだと思っていた出来事は実はそうではなく、この封筒がきっかけだったのだろうか。いや、きっかけなんて、後からそうだと決めるだけのことだ。それはお互いの心のうちにあって、それすら一致しているかどうかは分からない。実際には、ノーカウントに数えられるような些細なことが積み重なって、どれが原因だったのかなんて、今更わかるはずもないのだ)
封筒は、恩人の井上先生からのものだった。井上先生は、お嬢さんを小野さんにくれると決めているようである。文面からは、もう決まっていることだから、特に述べない、と言うようなことが書いてある。どのような話が、どのような経緯でなされたのかは、当然書かれていない。小野さんや漱石からの説明もない。(ちょっとずるい気もする。)住み慣れた家は隣の家が譲り受けてくれ、荷物もほぼ売り払ったから、手軽にそちらへ行く。東京は二十年来だから、ご厄介になる。娘は使い慣れた琴だけ持っていくなど書いてあった。
何事も口に出せるものなら文学はいらないと、
どこかで読んだ。
(判明したら、加筆します)
口に出せない思いがあるから、
そこにストーリーが生まれる、と。
確かにそうなんだろう。
でも、この漱石の優柔不断な態度が無駄にストーリーを生み出しているんじゃないの?となぜか漱石に八つ当たりしたくなってきた…
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