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「自己愛とは、自分自身でありたい欲望のこと」|斎藤環さんを読む

「愛する」ことにまつわる永続性、克己、利他性に対し、「好き」は無自覚なエロスなのだと思う。

自分の「好き」を大事にすることが、一番シンプルな自己受容の方法なのかもしれない。それだけでは足りないけれど、迷ったらそこに立ち戻ること。

世の中にあふれるそれぞれの人の「好き」を好きでいたい。


(↑最近思っていたこと。ひとりごとです。)


 ここひと月の間に、精神科医・斎藤環さいとうたまきさんの本を5、6冊読んだり聴いたり。
(英語とフランス語に苦労したばかりだったので、日本語ってなんてわかりやすいんだろう😭 と感激しながら...)

 心理学や精神分析の本を読むのが好きなのですが、新鮮な驚きがあるのは後者の方が多いかも。

 数冊ほどご紹介しますね。



 「自己愛」というと、「自己中心的」と捉えられがちで、精神科エリアでもそういったネガティブな「思い込み」が多いそうです。
 ですが、斎藤環さんは、「自己愛」を「自己肯定感」や「自尊感情」の土台とし、生きる上で欠かせない原動力と考えます。

 「自傷的自己愛」というのは、本によると、①自分が無価値だと思い込み、自分を徹底的におとしめ、時に希死念慮を抱いたりすること。これらは、②精神的な自傷行為とも言え、自分の存在を確認したい思いの表れでもある。
 突き詰めると「生きるエネルギー」の現れなので、決してそれ自体が絶対的に悪いものというわけではないのですが、当事者は非常に苦しいため、そこから抜け出すことができれば...と願って、対話を続けていらっしゃるとのこと。

 私自身は、「自傷的自己愛」という言葉にかなり思い当たるところがあるけれど、本の表紙に挙げられている点についてはそれほど該当しないと思っています(自覚としては)。ただ、ほめられて育った人にありがちな「自信のなさ」は根深くて、「ほめられる(=評価される)と一瞬安心するけれど、きっとみんな早晩がっかりするだろう」という諦観からどうしても抜けられないのです。
 本を読んだから激変することはもちろんないにせよ、客観視する視座をいただいたのは非常にありがたいことでした。

......創造的な営みは、低い自己肯定感からもたらされる場合も多いこと、無理に上げられた自己肯定感は反作用も大きいこと、......

〈おわりに〉より

↑これも、なるほど!と心を慰められました。
そして、↓

自己愛とは「自分が好き」という感情ではなく、「自分自身でありたい」という欲望のことである...(中略)...成熟した自己愛を構成する要素には、自己肯定感のみならず、自己批判、自己嫌悪、プライド、自己処罰といったさまざまな否定的な要素までもが含まれるということです。ここには異質な要素の調和によらない共存、すなわちポリフォニーがあります。つまり自己愛とは、自分自身であり続けたいというポリフォニックな欲望のプロセスを意味するのです。これが本書の自己愛の定義となります。

同上


 ちょっと鳥肌が立ちました...。「調和によらない共存」でよい、という斎藤さんの思いの優しさに。

 これは、アドラーの言う、《エネルゲイア》的な生き方──つまり、目的地に着くかどうかではなく、その一瞬一瞬にフォーカスするという、(マラソンではなく)ダンスのような生き方──にも通じると思います。


 また、昨今は「つながり依存」が強いこと、SNSにおける「承認」は生身の「承認」ではなく「キャラとしての承認」であり、「キャラ」を巧みに操作して「承認」を得ることのできる「強者」と、そうできない「弱者」に分かれ、「弱者」が「自傷的自己愛」に陥りやすい、という示唆も非常に興味深かったです。SNSのしんどさは、こういったところにも原因があるのかもしれませんね。




 そして、同程度におもしろかったのはこちら。

「男性性と女性性」についての考察。2009年刊行で、10年以上前の本ですが、男女の違いについて悩むのは、それこそ神話の時代から連綿と続く文学の「永遠のテーマ」でもあるので、充分に「新しい」と言えると思います。様々な角度から分析していただけて、非常に読み応えがありました。

 農耕の起源以来、社会的には常に弱者の側にいる女性ですが、愛(性愛含む)において豊かさを享受する能力は圧倒的に女性(女性性)の「一人勝ち」みたい(私の説じゃないんですよ💦)。それで女性は恋愛ものが大好物な人が多いのか...と納得しました。

 もうひとつの収穫は、フロイトやラカンの学説は当時の時代背景(男性優位)も手伝って、女性が読むと「引く」内容だけれど、こんなふうに解釈すれば現代の精神医療にもつながっていますよ、という道筋を示してくださったこと。
 高校2年生の頃にフロイトを読んでドン引きした私なので、これは良い発見でした。(ピュアなお年頃でしたから特に...(^^ゞ)




 もう1冊挙げるなら、ちょっと迷いつつ、こちら。

 副題にあるように、小さなヒントが散りばめられていて、興味深く拝読しました。対談形式のため深掘りはされていませんが、その分いろんな分野についての示唆が得られます。
 『鬼滅の刃』がなぜ好まれたのかについての考察もおもしろかったです。個人的には、あの世界の閉塞感がちょっと...いえ、かなり苦手で、「好きになれなくてごめんなさい」と思っていました。自分の中で折り合いがつけられてよかったです。(お好きな方、ごめんなさいm(_ _)m)



 あとは、『世界が土曜の夜の夢なら』も、なじみのない世界を覗き見ることができて、自分の世界の狭さにまたひとつ気づくことができました。"父性"や"母性"が暴力的になるとどうなるか、について学べたのも大きな収穫でした。
 かつてローザ・ルクセンブルクが言った「自由とは常に、自分と考えの異なる人の自由のことです」が、私の座右の銘です。大学生の頃著書を読んで、(他の箇所はぜんぶ忘れたけど(^^ゞ)、この一文に心を打たれ、事あるごとに思い出す名句となりました。
 まだまだ狭すぎる自分の視野を少しずつ広げること。それが私の読書の柱のひとつです。

 斎藤環さんは、現代の社会事象、映画やアニメなどに関する考察もよくなさっています。対談形式の本は(私個人が)相手を選ぶところがあり、実は途中で興味が失せて読み終えられなかった本も1冊あったのですが(^^ゞ、それは私の興味(の狭さ)によるものであり、全般的に、とてもおもしろいと思います。単著の場合は特に、非常に論旨が整理されている印象で、(私も頭の中がこんな風にすっきりしていたらいいのになあ...)と、うらやましく思いながら読みました。

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