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梅棹忠夫氏に会いにいった日のはなし

梅棹忠夫氏に興味を持っていたのはなんでだったか。

『文明の生態史観』もそうだが、生きているということは、生物という言葉ひとつでとらえられるものではなく、動いているということ、
動いているということが、生きているということなのですよ、と教えてくれたからのような気がしている。

どうも、だいぶ大学受験のときの「日本史」への恨みがあるような気がしている(笑)。

問題に接近する道に、二つの型がある。一つは発生論的位置づけであり、一つは機能論的位置づけである。発生論的geneticな接近とは、生命の遺伝的geneticな連続をたぐることである。何から何が生まれ、それからまた何が出たかをいう。それは、自然における人間の系譜つくりgenalogyである。

梅棹忠夫・吉良達夫編,1976『生態学入門』講談社(講談社学術文庫),p25-26。


ここまでで、もう「日本史」だったものは、物事の半分にすぎないよ、といってもらえた感がある(笑)。受験の「日本史」は、「発生論的に」社会の動きを追ったものにすぎない。問題は後半である。

機能論的functionalな接近とは、ものとものとの関数的functional関係をたぐることである。何は何を動かし、それがまた何に関係するかをいう。それは、自然における人間の役割、人間における世界の他の構成要素の役割をあきらかにする。その立場は、より具体的であり、より総合的であり、より動的である。ここにはじめて、自然の構成要素としての人間の、歴史への道がひらかれる。系譜は歴史ではない。系統だけで自然史はできない。進化evolutionとは、世界の機能的連関の発展であり、進化史とは、その時間的継起の叙述でなければならない。

梅棹忠夫・吉良達夫編,1976『生態学入門』講談社(講談社学術文庫),p26

なんだよー。あんなに暗記させられた「日本史」は「歴史ではない」んじゃないくわぁー!と地面に寝転んでじたばたしたくなる(『文明の生態史観』も、歴史を生態学的にみるこころみでしたしね)。

梅棹氏(と吉良氏)がここでモチーフにされているのは自然科学なのだが、このもののみかたは、わたしがフィールドワークで家庭や台所をみるときもアレンジしてつかっている。

皿、ポット、食器、コップ、その「もの」たちの存在は、「具体的」である(フィールドノートに書く)。そこにあるものと人とがどうつながりあっているか、そのつながりもまた、「具体的」である(これも書く)。そしてその具体的記述の集積は「動的」なかたちをそのままに、「総合的」な、台所と食事の意味をくみあげてくれる。

たとえば、お椀というものがあります。そして、お鉢というものがあります。お椀とお鉢はどうちがいますか。西洋料理の食器としては、お皿があります。いわゆるプレートです。それとソーサーはどうちがいますか。ボウルとはなんですか。
 実はこういうものをひとつひとつ、単独で定義することはできないのです。それぞれ、他との差異をはっきりさせることによって定義されるのです。たとえば、グラスとタンブラーはどうちがうか、というふうになります。そして、それぞれの食器類は、一つの食事文化のなかでは、一貫した体系をつくっているものなのです。その体系をこえて、よその文化といきなり比較することは、もともと無理があるのです。

梅棹 1980「食事学入門」『食事の文化ー世界の民族』5-59, 朝日新聞社(『梅棹忠夫著作集第9巻』p449)

「こういうものをひとつひとつ、単独で定義することはできないのです。」


たとえば、「お茶碗」には「お椀」の存在が推測されるし、主食としてのごはんの意味もまたみせてくれる。それから「湯飲み」もそれらとの結びつきや、結びつかなさとのあいだでその位置を決められる。マグやボウルやソーサー、グラスはそこでは「湯飲み」や「お茶碗」の代替えとのあいだで位置を占めるが(おそらく)、それは西洋の食器の体系は無視している。


こうした土地の食器と食べ物の組み合わせ、食べる人との関係でくみあがったものの意味をみていくと、それは水と家、火と家、乳製品と家、家族と家、客と家を、そのひとつの場でどうむすびつけ、どうむすびつけないものなのか、そこでもっとも大事にされているものは何なのか、家の内と外とはどういうわけられかたになっているのかをみせてくれる。それがみえてきてからが、フィールドにおける質問の開始である。それもみえていないのに、する質問でする時間の浪費は、罪である(とわたしは思っている)。

生きているということは、その生物が、世界の一部と主体=環境系をつくっているということであった。環境とは生活の場であり、生活の場はすみ場所である。種社会という具体的な存在が、一つの全体として実現するということは、それが、この世界の中に、固有の生活の場を確保しているということである。

梅棹忠夫・吉良達夫編,1976『生態学入門』講談社(講談社学術文庫),p73

一度調査の対象を生業(農耕や牧畜や狩猟や採集)という方向にむけてみてみると、民族とは、宗教とは、という問いさえも、もっと違うみかたでみえてくるように思える。それは、人間とは、という方面もまた。

博物学は、その「生きていること」すべてをあらわしてはいない。


ものの名前と形をいくら集めても、料理の種類をいくら書き出しても、それは「生きていること」の一側面にすぎない。

わたしが現地で「うわっ」と感じた違和感を説明してくれるのは、「そ…そんなこと考えて生きてたの?」という異なる生活のくみあげられかたをとりだすことができたときだ。


紀行文などを読んでいても、おもしろい側面がとらえられているのをみても、それは断片にすぎず、それが日々の暮らしのなかでどのくらいの頻度の位置づけなのか、一回の行為内で何度みられるものなのか、それは男女で変わるのか、違う世帯になったら変わるのか、ともっと詰めたいことがたくさんでてきてしかたがない。

歴史や、テレビのドキュメンタリーでは伝わってこなかった、現場の空気を、もっと厚みをもって伝えることのできる方法は、こうした視点をもつ文化人類学の手法によるものなのではないかというのが、今のわたしの最前線である。




指導教員に梅棹忠夫氏に会ってみたいとお願いをしたことがあった(経歴的に、お知り合いと拝察)。指導教員はちょっと驚いた顔をされてから、考えられて、あとで「他にもゼミで会いたい人がいたら、そのひとたちも一緒に行って、せっかくだから、そこでじぶんたちの研究を梅棹氏に紹介するというかたちで氏と会おう」ということになった。

結構な人数があつまった。
無機的な民博のシンプルな廊下では、イスラム研究の片倉もと子氏に遭遇した。

「んまっ、〇〇先生ったら、大学ではこんなにたくさんの学生さんたちにかしづかれてるのね」

か、かしづいてはいないが…のちにイスラム研究にすすむわたしにとって、これが片倉もとこ氏におあいした最初で最後であった。

国立民族学博物館には館長をしりぞかれたあとにも梅棹氏の部屋が残っており、
そこで盲目の氏が、わたしの隣に座られた。

本当に息をして、動いていらした。

あれだけの本が、このひとを起点に生み出されたのかと思うと背筋が緊張した。わたしをして文化人類学まで、京大にまでいたらしめた力の一端が、確かにそこにあった。とてもひとりの人間の仕事とは思えないほどの著作量、切り口のみつけかたのあたらしさ、到底わたしなどとは結びつかないと思っていた梅棹氏の人生の軌跡が、すこしだけ、わたしと一緒のときをすごした。


しかし梅棹氏おもしろかった。

先輩たちから発表をはじめたのだが、退屈になってくると、寝るのである。
うぉ~い、うちの指導教員も寝るけど(資料をみれば内容がわかるような発表のときは大概寝ている。しかも腹立たしいことに[褒めてます]、その後でされる質疑応答は完璧なのである[起きていたわたしたちよりも!]。まったくなんでやねん。)なんだこれは京都学派の伝統なのか。
いびきまで聞こえてくるぞオイ(そしてコメントはやっぱり的確…)。


こうなったら寝せないのがこっちの腕のみせどころである。


(わたしが何を話したかは……忘れた!だいたいまだフィールドに行っていないころの話だし。だけど梅棹氏はずっと起きててくださったし、時々はっはっはと笑ってくださったのがわたしの宝物になった、というか、わたくしはミーハー)



久々に梅棹氏にあえたという指導教員は、そのあとの飲み会で、すこし饒舌だった。
わたしの一言からはじまったその会合なのだが、



そうか、面白くなかったら寝るのか。


やっぱりお会いできてよかったな、とわたしは思っている。

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