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映画「プラトーン」を観て

5月3日「プラトーン」という映画を観た。
原題は「Platoon」。1986年のアメリカ映画で、オリヴァー・ストーン監督の作品だ。

キャストは、クリス・テイラー役のチャーリー・シーン、バーンズ役のトム・ベレンジャー、エリアス役のウィレム・デフォー、ウォルフ中尉役のマーク・モーゼス、キング役のキース・デヴィッドなどである。

あらすじは、

1967年。アメリカ合衆国の白人の大学生・クリス・テイラーは、黒人やその他の少数民族、地方の田舎町で生まれ育った貧困層など、比較的低い社会階層の自分と同年代の若者が世間で不当な扱いを受け、職業と現金を求めてアメリカ軍に入隊し、次々とベトナム戦争に出兵していく現実に憤りを覚え、両親の反対を押し切って大学を中退してアメリカ陸軍に志願し、ベトナム共和国(南ベトナム)のカンボジア国境付近に駐屯するアメリカ陸軍第25歩兵師団のある小隊に配属される。
小隊は若い小隊長・ウォルフ中尉を差し置き、戦鬼と化した分隊長・バーンズ軍曹と、まだ人間らしさを残したもうひとりの分隊長・エリアス軍曹が取り仕切る小社会だった。鬱蒼としたジャングルで敵味方が混在する戦場の過酷さはクリスの想像を遥かに超えるものであり、彼は配属当日に自身の正義漢ぶった決断を後悔する。クリスは配属直後の戦闘で負傷し、しばらく小隊を離れる。復帰後のクリスはさまざまな出自の若い兵士たちと大麻をたしなみながら徐々に小隊に打ち解け、兵隊生活になじみ、そして過酷さを増していく戦争にも慣れていく。
小隊は、敵である北ベトナム軍や南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)のゲリラ戦に悩まされるだけでなく、士気が落ちて疑心暗鬼となった味方の同士討ちにもさいなまれ、兵士たちは次々と倒れる。狂気に陥った隊員たちの中には非武装の民間人に手を出す者まで現れる。
戦地における民間人の処遇を巡り、殺傷することをいとわないバーンズと、それに反対するエリアスの対立は決定的となる。バーンズを軍法会議に告発しようと考えていたエリアスは、戦闘中に味方を援護するためジャングルへ単身で突入した際、後を追ってきたバーンズから撃たれて瀕死の重傷を負う。北ベトナム軍の追撃を受け、エリアスが死んだとバーンズから伝えられた小隊はヘリコプターで離脱する。取り残されたエリアスは敵に追われたのち、クリスたちが上空から見守る中で敵弾を受けて倒れ、絶命する。クリスは、バーンズの態度から彼がエリアスを撃ったことを察知し、仲間たちに報復を呼びかけるが、その場に現れたバーンズはエリアスの追放を正当化し、「殺せるものなら殺してみろ」と隊員たちを挑発する。
翌日の夜更け、北ベトナム軍の大部隊がクリスたちの部隊に夜襲を仕掛け、彼らを包囲する。北ベトナム軍はクリスたちの外周防衛線を突破して後方地帯にも浸透し、大隊本部は自爆攻撃によって大隊長ごと壊滅する。クリスたちの中隊長が味方に犠牲が出ることを覚悟の上で、自分たちのいる陣地ごと空爆するように要請を出したことで、クリスたちは味方の空爆に巻き込まれてしまう。その混乱に乗じて、バーンズがクリスに襲いかかるが、すぐ近くで投下弾が爆発し、2人は気を失う。
夜明け。ジャングルの中で意識を回復したクリスは、重傷を負ったバーンズを見つけ、拾った敵の銃で射殺する。その場に座り込んだクリスは味方の部隊に救出され、2回戦傷を負ったら後方支援に回るという軍規に基づき、残る戦友たちに別れを告げて戦場をあとにする。

出典:Wikipedia

といった内容。

で、観終わっての感想。

戦争は精神を崩壊させる

この映画は、ベトナム戦争の映画である。
ベトナム戦争も終わってから50年以上経つ。ボクが子供の時代は、ベトナム戦争はつい先日のような、そんな感覚があった。
それも昔の話。この映画も38年前の映画になる。何だか驚いてしまう。
さて、昔この映画を観たことがあるが、内容をよく覚えていなかったので今回再度鑑賞の形となった。
観終わって、思うこと。
やっぱり、何があっても戦争はしてはいけない。
瀬印相の中から生み出されるものは、憎しみと悲しみ、そしてトラウマである。
そこに、未来へ向けての明るい将来は、1ミリもない。
精神を崩壊させ、人を人の命だと思わなくなる。
地獄そのものだ。
だから、いかなる理由があろうと、してはいけない。
あたり前のことだが、再確認した。

味方の中の敵との闘い

戦争は、もちろん経験したことは無い。
でも、戦時下というものは、戦地ではこうなるだろうと予測はできる。
同じ時間を費やし、常に顔を合わせ、敵との戦闘で仲間が死んでゆく、人を殺す。そうなれば、味方の中にも敵を感じるのではないだろうか。
そして、その味方の中の敵と戦う。
残念なことではあるが、このようなことは戦地ではいくつか起こっていたかもしれないと想像できる。
戦争とは、許される殺人なのだ。そう考えると、恐ろしい。
そして、敵は自分の中にいる”悪”であったりもする、のではないだろうか。

1980年代に多かったベトナム戦争の映画

この80年代から90年代は、ベトナム戦争を主題にした映画が多数ある。
その後、湾岸戦争やほかの戦争が起こり、今ではこの戦争を取り上げる映画は少なくなった。ベトナム人は東洋人である。日本人である自分からすると、映像がより生々しく見える。ベトナムの村の襲撃シーン。「何を笑っているんだ」と、銃弾を地面に撃つクリス。そのベトナム人は、おそらく障害を持っているように感じた。
そして、村人を疑い、射殺したり、女性を犯したり、もう犯罪者集団である。これが戦争なのだ。
映画の中で、エアリスが「俺たち(アメリカ)は横暴すぎた、そろそろバツが与えるころだろう」のようなことを言っている。そして、実際にその結果となる。
敵(ベトナム側)の死体を、ブルドーザー処理するシーン。
戦争は、人の扱いを、ここまでしてしまうのである。

人は平和を当たり前に思い、忘れてしまう

今の時代。現在の日本は平和である。
そう思わない人もいるかもしれない。
でも、少なくとも、戦時下から考えると確実に平和である。
でも、それを自分も含め当たり前だと思っている。
そう、これは怖いことかもしれない。

いま日本では、無関心の中に、法を変え戦争をできる状態にしようとする動きが見える。平和が当たり前のボクらは、これに気づけないでいる。
このこと自身が、危険なのではないかと思う。

平和は、当たり前ではない。
もう一度、心に刻みたい。


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