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消費と生産、料理の楽しさ

消費するだけのしんどさ


会社員時代、ふとただ漠然と「消費に疲れた」と思うことがあった。どうしてそういう言葉になったのかはわからない。お金持ちでもないし、ほしいと思ったものを全て手に入れたわけでもない。

この感覚を言語化するのはどこか難しいなと思うんだが、なんとなく、欲しいと欲すること、そしてそれを金銭で解決させることの繰り返しにどことない虚無感を覚えた、という表現が一番しっくりくるだろうか。楽しかった買い物や外食・カフェ巡りに唐突に疲れてしまったというのが最も、かもしれない。

一生懸命に稼いで得たお金を好きなように使うことは楽しい。その使い道は人にとっても様々だと思う。最近では投資が人気なのだろうか、若い人でも堅実に貯蓄や投資をして将来に備えているのはすごいなあと端から見ていて思う。

そういう私は稼いだお金はほとんど飲み食いに費やしていた(酒好き)し、あとは多少の買い物などで使っていた。市場には新しいものがどんどん出回り、生活はますます利便性を高めていく。コツコツという響きは新たな家電製品の登場のおかげで一瞬に取って変わっていった。近年ではスタイリッシュなものも多く、生活する場がモデルルームと化している人も少なくないのではと思う。

新しい店、新しい商品、ひとつひとつをつぶさに見つめると違うものが、稼いで消費という点では全く同じだ。思考停止でただ消費すること、また手に入れた後の高揚感は数日後にはまるで幻だったかのように消えてしまっていることを振り返って思うのは、なんか疲れた、ということだった。私はただ労働力を消費しているだけだ、何も生産している感じがしない…そう漠然と思ったもののどうしていいかも分からないため、その繰り返しに辟易しながらもただただ続けていた。

お金の使い方と向き合う

自分で稼ぐようになると自由が増える。労働力の対価として得たお金なのだから好きに使っていい、尻込みする必要がなくなった。だがそうして消費を繰り返す中で、何かが麻痺し、忘れ去られてしまったものがあるような気がした。

そこで私は自分へのお小遣い制を導入し、今日は〇円までしか使えないゲームと称してどの様に工夫すれば制限された金額の内に抑えられるか実験してみたことがある。具体的な内容は出社してから家にたどり着くまでの時間に費やすことが出来る金額に制限をかける、というもので当時の私は家には寝に帰るだけで帰宅は22時以降ということもザラ、朝は7時前には家を出るというような生活を送っていた。

やってみて気付いたのは、昼ご飯という一つの項目についてすらいかに普段の自分が何も考えずに買い物をしていたかということ。思い返せば会社周辺のコンビニでは何が新しく増えた商品で、それらは何曜日に追加され、大体何時頃には商品が潤沢に並んでいるかなどを全て把握していた。午後のデスクワークは糖分が足りないと頭が回らない、とお菓子を定期購入し朝は眠気覚ましと称して近くのカフェでお気に入りのコーヒーをテイクアウト。考えてみれば当たり前だがちりつも消費が激しかった。

制限の中で消費する行為は子どもの頃にお小遣いをもらってその範囲内でお菓子を一生懸命選ぶあのシーンと重なる。この食玩のおやつを買うと予算オーバー、でもこちらのガムではまだ余る、かといって…と幼ながらに色々と思考を巡らせたのを懐かしく感じた。と同時にそういう心をすっかり忘れてしまっている自分に虚しさを覚えた。

またこういう労働、消費のサイクルに乗っからない生活もあるのかなと思い書物を漁った時ダウンシフトという言葉に出会った。過度な消費主義から抜け出してもっと余暇を持ち、ゆっくりとしたペースで生活することを選ぶ者を減速生活者と呼び、著者がいかにそうなったかが記されていた。

時間がないからお金がかかる。現代が消費に拍車をかける様が皮肉にもより一層ダウンシフトの魅力を語っていた。

経済成長を追い求めれば求めるほど、今よりサバイバルゲームが激しくなり、ますます生きることが辛くなります。世間に煽られて消費すればするほど、支払いのために労働時間が増え、余暇がなくなり、自由が奪われます。残念ながら今の世の中のカラクリは、そういう世界経済システムに支配されているのです。有限の地球でこのカラクリを続ける限り、一部の強者が多数の弱者からパイを奪い続けること(=格差の拡大化)でしか成長などありえません。

減速して自由に生きる: ダウンシフターズ
高坂 勝

だが、かといっていきなり農業を始め、自給自足の生活をすることなどは理想ではあっても不可能に近い。「消費」することに疲れたのなら「生産」すればいいとは思うのだが、どうすればそうなるのかが分からない。モヤモヤしながら、出産・育児に向けて会社ではなく自宅で過ごす時間が増えた。すると必然ながら台所に立つ機会が多くなった。食べる、という行為が料理をすることによってどことなくそのニュアンスを消費から生産に変えたように感じられた。

料理をするという生産性

恥ずかしながら子ども時代私はあまり母と共に台所に立った記憶がない。あまり料理を手伝ってこなかったのだ。母は料理が得意だったし、私には好き嫌いがあまりなかった為さほど困ることもなかった。出されたものを文句を言わず残さず食べるということ、それだけが料理を提供される側に求められることだった。私は食べることが大好きなのでそのシステムの恩恵にあずかり、日々健康に暮らしていた。私にとって食べることはずっと消費でしかなかったのだった。

自分が妻として夫に料理を提供する際と、母として子に提供する場合では自然と意識が異なった。まだ身体的に未発達な乳幼児の口に運ばれるものには神経を使う。離乳食について多少学びながら、漠然と使っていた調味料に含まれる添加物についても気を配るようになった。

普段コーヒーに入れているミルクが、水とサラダ油と添加物だけでできていることを知らない。サボテンに寄生する虫をすりつぶして染めた「健康飲料」を飲んでいるとは思いもしない。「体のため」と買って食べているパックサラダが、「殺菌剤」のプールで何度も何度も消毒されているのを知りようがない。いま食べたミートボールが、大量の添加物を使って再生された廃棄寸前のクズ肉だということなど想像もできない。毎日毎日、自分の体の中に入れる「食品」なのにもかかわらず、それがどうやってつくられていて、その「裏側」でどのような添加物がどれほど使われているのかーそれについて私たちは何も知らないのです。ただただ、「一流メーカーがつくっているから大丈夫」「大手スーパーが売っているから、変なものであるはずがない」そう無邪気に信じて食べているのです。

食品の裏側―みんな大好きな食品添加物
安部 司

すべてをオーガニック、なるべく添加物を使わない、また添加物が沢山含まれる菓子類などを与えない、といった理想は現実的には早期に打ち砕かれたが、それでもなるべく身体によいものを与えたいという気持ちは今も変わらない。

自分で作る、という行為は材料に何を使っているのかが明確でより安心でき、また無から有を生むときの感覚に似た楽しさがそこにある。食べて美味しい、だけでなくこれは何が使われているのだろうか、再現できるだろうか、といったことに思考を巡らせるのも楽しい。また栄養についてや調理法などを学ぶことで更に効率が上がり、アレンジをきかせることが出来るようになってくること、そしてその先にオリジナルで編み出せることなどのワクワクが待っている気がしている。

消費する、から生産する。食べる、から作るへ。
マンネリした消費という感覚を脱し、今の自分に出来ることで無理なく、都度楽しみながら「生産」する。

そう意識してからというもの、食事がより一層、楽しくなった気がしている。

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