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シュネーシュメルツェの旋律 第0楽章 ~ 天泣の遁走曲(フーガ) ① ~


  目に留めてくださり、ありがとうございます。これまでに書き始めては途中で諦めてしまってきた小説たちで表現したかったことを詰め込んだ話にできればと思い書き始めて随分経ちますが、ここで公開させていただければと思います。何かが伝わる文章となっていると幸いです。




 澄み渡る空から舞い降りる風花が睫毛を濡らした。
 車窓から眺める景色は穏やかで、この先に待つであろう悲しい光景など想像することもできない。それでもそのような光景に出会うであろうと予想できるのは、それと向き合うのが自分の役目だからだ。
 
 目的地まで、あと1時間といったところだろうか。
 どこまでも広がる空に薄い雲が浮かび、その中を数羽の小鳥が自由に舞う姿が遠目に見える。自由という言葉を思い浮かべる時、虚しく切ない気持ちになることがある。しかし、今目に映し出している小鳥たちの姿からは、優しい気持ちだけをもらうことができていた。
 天色の空の下には冬でも枯れない青々とした芝生が一面に広がっている。牧草地のようだが、随分と広く、一向に終わりが見えない。どこまでも長閑な風景の中で、時々数頭の馬や羊、牛の姿が目に留まる。心の片隅にある焦燥感とは裏腹に、時間はゆったりと流れていた。
 
 今、何気ない景色を目に映し、綺麗だと思えることに感謝する。明日、いや、数時間後でさえも、自分の命が続き、同じ感情を抱くことのできる状況にある保証はない。今が穏やかな気持ちで世界を眺めることのできる最後の時間かもしれない。そう心に刻んでおかざるをえない立場にありながらも、奇跡的に、この世界を美しいと思いながら、今日も生きることができている。
 ――――――――自分にできることは少しでもあるだろうか。誰も、何も失うことなく、守りきることができるだろうか。
 平静を装い目的地へと向かうが、そこへ到着するまでの時間は、いつも不安に押し潰されそうになる。悲しみの尽きない残酷な世界の中で、失われないでいてほしいと願いたくなるような綺麗なものや温かいものに数多く出会い、それが壊される瞬間を幾度も目の当たりにしてきた。理不尽に奪われた幸せに、手の差し伸べようのない深い心の闇に、目を覆いたくなるような惨状に、心を引き裂かれそうになることが何度もあった。
 多くのものが消えていった。目の前のものさえ守りきることができなかったその度に、自分の無力さを痛い程思い知らされた。
 
 それでも尚、少しでも何かを変えられることを願い、足掻き続けている。純粋に、正しさや正義などを掲げることはできない。もっとずっと複雑な葛藤を繰り返し、自分の信条と心情と向き合い、あるべき姿を、とるべき行動を選び続けてきた。その結果に絶望で心を埋め尽くされるような想いに駆られることも幾度となくあった。
 
 行く先々で人々の心に触れて、その温かさも恐ろしさもそれなりに知ってきたつもりだ。自分のような立場の者にも親切に接してもらったこと、それに報いたい、何かを返したいと思うことも多くあった。しかし、美しい部分だけ目に映し、都合の良いことだけを聞いていくわけにはいかない。世界に蔓延る様々な名の付けられた醜い感情とも対峙し、人々の傷つけ合いに心を痛めてきた。
 そしてそれは決して他人事ではなく、それを見て悲しくなってしまう自分もまた、ただの人間のはずなのだ。汚い心も、何かを慈しむ心も持っている、過ちも犯すただの悲しい生き物だ。
 どこにでもいる、周りの人々と変わらないはずの1人の人間。しかし、少し変わった力と使命を与えられてしまった。
 この立場に誇りを持っているわけではない。不本意な選択をしなければならないことも多い。だが、自分の見てきた世界と自分の心を守るための手段として、続けることを選んだ。自らの意志で。偽善でしかないと自嘲しながら。偽善でもいいから救いたいと願いながら。今も不条理な世界の中で、誰かが理不尽な目に遭っているのだろう。それは酷く悲しいことで、しかし、それでも必死で、傷付きながらそれぞれの抱える何かと向き合い続ける人々の姿を美しいと思う。それを守りたいと思う。
 
 救えなかったすべてを背負い、全部受け止めて、飲み込んで、できることを探し続ける。心か命の限界まで。この選択が正しかったと、誰かに認めてもらえることを願いながら――――――。

 


天泣の遁走曲



「ありがとうございます」

 最低限の荷物のみを詰め込んだ飾り気のないトランクを受け取り、乗ってきた列車を見送ると、植物の弦のような繊細な模様で装飾された瀟洒た造りの改札をくぐる。
 その先に広がるのはどこにでもありそうな、適度に賑わった昼下がりの街の風景。花壇に植えられた主張しすぎない花々が可愛らしく咲き、葉の上で溶けた雪の雫が小さく煌めいている。
 クレープ屋のワゴンの前にできた列に列ぶ子どもたちの表情は明るく、噴水の水は綺麗な弧を描き陽光を反射して燦々と輝く水面へと還り、どこからともなく聴こえてくる軽やかな音楽はそれらの景色に自然と馴染んでいる。
 つい先程まで静かに舞っていた雪は止み、ほんのりと暖かな陽射しが街全体を包んでいた。
 この街に異常な何かが潜んでいるなど一見信じられないが、隅々まで目を通した資料にまとめられていたような何かがどこかで起こっているのだろう。何の変哲もないように見える現場に送り込まれることは初めてのことではないため、特に疑うことはない。ただ、少しだけ、何かの間違いであってくれたらと心の隅で期待している。
 
 街の様子を眺めながら、まずは予約されているはずの宿へと向かう。履き慣れたブーツで歩く舗装された道で何人もの人々とすれ違う。その中にこの街で起こっている何かの影響が見られないかと意識を研ぎ澄ませるが、特別変わった様子はない。穏やかな街の姿を目に焼き付けるだけで、宿の近くまで辿り着いてしまった。
 任務遂行の為にはある程度の活動費が出るが、贅沢は好まない。希望すれば高級な宿に泊まることも可能ではあるが、毎回、現地の人の営む落ち着いて過ごすことのできそうな宿を選び、組織から支給されている費用の中から本来の宿泊費より少しだけ多い金額を先に払い、できるだけ迷惑をかけないよう、目立たないよう滞在する。そうして任務を終えた時には、禍を持ち込むかもしれない自分を受け入れてくれたことへ、簡単でも心からのお礼の言葉を告げ、速やかに立ち去ることを繰り返していた。

 今回の宿は、街の東の端にある2階建てのペンションだった。モスグリーンの屋根に備え付けられている風見鶏は愛嬌のある顔をしている。迎えてくれた老齢のオーナーは人当たりの良い朗らかな人物で、説明した少し複雑で大きな不安を与えてしまうような事情を快く聞いてくれた。
 
「できるだけご迷惑をおかけすることのないようにしますので、よろしくお願いします」
 
 案内された部屋の床には上品とも可愛らしいともとれるダマスク柄の絨毯が敷かれ、その片隅に温かみのある木のテーブルと椅子が並べられている。机の上には繊細な花弁のような形の縁をしたグラデーションがかったランプが置かれ、右上に修繕の跡が残っている姿見は温かみのある白の壁を映し出している。年季の入った壁掛け時計は午後2時を示していた。窓辺には可憐で小さな葉を並べるアジアンタムの鉢が置かれ、その横ではクリーム色のカーテンがそれと同じ生地の繊細なリボンで結ばれており、窓越しに見える街並みは1枚の絵のようで、一瞬目を奪われた。
 シンプルながらも全体的に柔らかで懐古主義的な雰囲気が漂い、幼い頃過ごした家の自室を思い出す。もう何年も、あの家へは帰っていない。昔の自分であれば好みに合うこのような部屋に泊まれることに浮かれていたであろうが、このような仕事をしている今の自分には似合わない、と心の中で自嘲し、少しだけ虚しくなる。
 部屋の設備を確認すると、机の横にトランクを置き、列車の中で目を通していた資料を再び取り出す。その中から1枚の地図を確認すると、肩に掛けたままの麻布のショルダーバッグに収め、ベルトに一見武器には見えない武器が装着されていることを確認し、オーナーに軽く挨拶をして、宿を後にした。
 
 
 
 広い通りまで出ると、最初に調べたいと思った、街の中央に位置する駅を挟み宿とは真逆の場所に存在する小さな孤児院へと向かう。再び街の様子を窺いながら30分程度歩いた先に辿り着いた赤い屋根の建物の前に広がる庭には幾重にも花弁を重ねる可愛らしい花が咲いている。冬の庭に映えるその花はなんという名なのだろうか。孤児院の入り口のドアへと続く細い道を、その花々に囲まれながら歩く。
 薄茶色の少し大きめのドアの前で立ち止まり、姿勢を正して備え付けのチャイムを鳴らそうとすると、背後から明るく弾むような声がした。
 
「お客様だ!」
「お客様?」
「新しい職員さん?」
「ローランドさんのお友だち?」
「お友だち......!」
 
 口々に言う5人の子どもたちは、5~10歳といったところだろうか。先程まで姿は見えなかったが、庭のどこかで遊んでいたのだろう。冷たい風に顔を赤らめ、毛糸の手袋を着けた手にはそれぞれ木の枝や小石、溶けかけの雪玉などを持ち、全員が興味津々といった表情でノエルを見ている。純粋な視線が少し眩しくて痛い。だが、気持ちを少し穏やかなものにしてくれるような気もする。
 ノエルは柔らかく微笑むと、子どもたちに向き直り、小さく会釈をする。
 
「初めまして。私はノエル・アシュリーといいます。新しい職員でも、ここの誰かの知り合いでもないんだけど、ここを経営されている方にお話を聞きたくて来ました。皆さんはここに住んでいらっしゃるんですか? 今、経営者の方はいらっしゃいますか?」

 ノエルが訊ねると、子どもたちはそれぞれ小首をかしげたり、どことなく嬉しそうであったり、自信に満ちているような表情をしたりと、豊かな反応で返してくれる。
 
「けーえーしゃ?」
「ローランドさんのことだろ」
「いるよ!」
「今はお兄ちゃんお姉ちゃんたちのお勉強見てるんじゃないかな?」
「僕、呼んでくる!」
 
 ありがとう、と言うノエルの言葉が届いたのか届かないのかわからないまま、栗色の髪の小柄な少年は踵を返しマフラーを揺らしながら一目散に建物の奥へと走って行った。
 
 
 待っているほんの少しの時間、残された4人の子どもたちと他愛のない会話をする。ブロンドの緩いウェーブのかかった柔らかそうな髪の印象的な少女に、大人しそうな眼鏡の奥の青い瞳の綺麗な少年、くせっ毛で目の大きな可愛らしい八重歯を持つ少年、耳の下でツインテールにしている5人の中で1番幼いと思われる少女。昨日授業で学んだこと、ついさっき見つけた小鳥がきれいだったこと、そんな話を聞かせてくれる子どもたちに束の間の安らぎをもらったことに、心の中でそっと感謝する。
 
 
 
「どうかされましたか?」

    少年が連れて戻ってきた経営者はノエルよりも頭ひとつ分身長が高く、丸い顔に丸眼鏡をかけ、年齢は50に近いであろうと思われるが、幼さと優しさを併せ持った顔つきをしていた。服装は薄い茶色のセーターに若草色のズボンと、こちらも優しい印象を与える色合いをしている。
 
「突然の訪問失礼します。ご迷惑でしたらすみません。私はノエル・アシュリーと申します。この街で調査したいことがあり、お話を伺えたらと思うのですが、よろしいでしょうか?」
 
「構いませんが、先に奥の子どもたちに声をかけてきてもよろしいですか? 現在子どもたちの学習を見ている時間でして」
 
「お忙しいところ申し訳ございません。こちらで待たせていただいても構いませんか?」

「ええ。では少々お待ちください
 ――――――みなさん、案内ありがとう。そろそろおやつの時間ですから、パトリシアたちに用意してもらって食べておいてください」
 
 ローランドが言うと子どもたちは返事をしながら建物の中へと連なって入り、一般の家庭よりは随分と長い廊下を駆けていく。姿がすぐに小さくなっていくのに合わせその声も遠ざかっていく。見届けたローランドも一旦奥へと戻っていき、ノエルはまた1人静かに待つ。
 
 
 数分後、戻ってきたローランドに案内され、応接室としても使っているという小さめの部屋へと入る。小さめといっても2人で話をするには十分広すぎるくらいの広さだ。中央にミントグリーンのソファと低めの机が置かれ、窓からは庭の景色がよく見える、明るい雰囲気の部屋だった。カーテンも薄いミントグリーンで統一感がある。
 
「ここは素敵な建物ですね。
 先ほど声をかけてくれた子どもたちの笑顔に良く似合う」
 
「ありがとうございます。公共の施設ではなく、自分たちの家のように子どもたちには感じてほしいと思い設えているのですが、人数が増えるに連れてだんだん狭く感じるようになっておりまして」
 
 柔和な笑みを浮かべると、ローランドは両手を前で組んだまま、ノエルの方へと向き直る。
 
「ところで今日はどういったご要件で?」
 
「唐突に申し訳ないのですが、この近くにあるアネモナント研究所という研究所をご存知ですか?」
 
「! ......あなたも説得に来たんですか」
 
 穏やかだったその声が急に低く敵対心を顕にするものへと変わる。柔らかく組まれていた手は強ばり、人の良さそうな笑みは完全に消えていた。
 
 
 
「あの子たちは誰にも渡しません。帰ってください」
 
 拒絶するような言葉と態度でノエルを追い返そうとするローランドへ、ノエルは1枚のカードを差し出した。黒地のカードに印刷されているのは機関のロゴと尾の大きな栗鼠のイラストのみであり、その裏には連絡先がノエル自身の流麗な文字で書かれていた。
 
「説明不足で申し訳ございません。おそらくご存知ないかと思いますが、私はこういう機関のものです。秘密裏に動く機関のため、表立って情報を明かすことができず、調べてもその詳細はわからないことと思いますが、正式な機関です。私の言葉だけでは信用していただけないと思いますが……。
 直接こちらに問い合わせていただければ話せる範囲で組織の情報を提供できるかと思います」
 
 ローランドは何も言わないままカードに手を伸ばす。受け取ってもらえたことに安堵し、ノエルは深く頭を下げる。
 
「今日は一旦失礼します。驚かせてしまい申し訳ありませんでした。
 よろしければ、改めて先ほどの皆さんに案内と雑談のお礼を伝えておいてください。お時間を割いていただきありがとうございました」
 
 何も知らない人々に対し唐突な行動をとることとなってしまう場面が多々あることを申し訳なく思い、受け入れられないことがあって当然だと覚悟を持ってはいるが、今のような視線や言葉を向けられることには慣れきることができない。可能な限り丁寧な対応を心掛けるが、機関の性質上、無闇に情報を明かすことができず、曖昧な説明となってしまうことも多い。不審に思う相手の気持ちも想像できるため、今回も食い下がることはせず、そのまま一度離れることにした。
 気持ちは晴れやかとは言えない。しかし、何も得られなかった訳ではない。
 
 アネモナント研究所――――――。
 資料によると、今回の調査対象は薬の開発の為の研究施設であり、以前より研究開発と臨床試験の場として運営されているが、最近は見慣れない人物が出入りするのを見かけられることもあり、訝しんだ街の住民が役人に相談したところから情報が伝わり調査依頼が来たとのことであった。
 ローランドの発言からすると、彼はその施設の関係者から、孤児院の子どもたちを何らかの理由で連れて行きたいと声をかけられている。普通に考えれば、まだ10歳前後の子どもたちに薬の研究を手伝わせることはないだろう。だとすれば――――――
 状況を数パターン考えてみるが、悪い予感しかしない。
 先程の様子からだと、ローランドがきっちりと子どもたちのことは守ってくれているようだが、それでもまた手を伸ばされる前に終わらせてしまいたい。相手がどのような手を使ってくるかはわからない。ノエルは今一度武器の感触を確かめ、対象の研究所のある方へと足早に歩き始めた。
 目に映る風景の穏やかさは変わらないのに、感じる空気はまとわりつくように重くなっていた。
 
 研究所が見えてくると、一旦近くのパン屋の前で立ち止まる。入口に置かれた手描きの看板を眺めているふりをしながら、研究所の方を横目で確認する。その建物は全体が白く窓が少なく、シンプルな見た目をしていた。地下があるのかもしれないが確認できる範囲では1階建てで、広さは先程の孤児院の5~6倍といったところだろうか。やや大きめの施設だが正方形に近い単純な形で外の見通しは良い。周りを確認しやすい分、近付くとノエル自身も目立ってしまう。今はそれは避けたいため、誰にも気付かれずに建物内部の様子を窺う方法を慎重に考える。
 4、5分立ち止まったままとなり、少し離れて考え直そうかと思ったところで、研究所に向かって右側の出入口から部分的に破れたツナギを来た男と白衣姿の男が走ってきた。前を走るツナギ姿の男が近付いてくると、その右目の上と左肩が異常に膨らんでいるのがわかった。必死な表情でふらつきながらノエルの立つ道へと向かってくる。その男を追いかけてくる白衣の男の表情も苦しそうなものだった。
 ノエルが近付こうとすると、逃げる黒髪の男は足をもつれさせ転んでしまう。
 
「見逃してくれ……もう……耐えきれる自信がねえ……」
 
 転んだ男は立ち上がれないまま、縋るような表情で追いついて立ち尽くす栗色の髪の男を見上げ、切れ切れに言葉を紡いだ。その膝には血が滲んでいるのがノエルの位置からでもはっきりと窺えた。
 
「すまない、頼むから戻ってくれ……。俺だってやりたくてこんなことやってるんじゃないんだ。でも、お前に逃げられたら今度は俺らが……」
 
 立ったまま手足を震わせている男の目も縋るようなものになる。だんだん声が小さくなり、いややっぱり逃げてくれ……、でも……、駄目だ……などとほとんど独り言のように呟き続けている。
 ノエルは改めて2人に近付き、できるだけ彼らの心をこれ以上乱さないように、静かに声をかけた。
 
「突然すみません。アネモナント研究所の方々でしょうか……? お怪我は大丈夫ですか?」
 
 2人の男は目を丸くして、少し訝しむように、ノエルの方へと顔だけを向けた。
 
「そうだけど……」
 
 少し躊躇いながら白衣の男が返し、ツナギの男は黙っている。
 
「私、このような機関に所属しております、ノエル・アシュリーと申します。よろしければ、人目のないところでお話を聞かせていただきたいのですが……。また、抵抗がなければ簡単に怪我の処置もさせてください」
 
 黒いカードを見せながら、可能な限り穏やかにノエルが告げると、2人は顔を見合わせて、躊躇いながらも頷いて返した。その返答に、ノエルは心の中で安堵する。
 
「ありがとうございます。よろしければこちらへ……」
 
 転んでいる方の男へ手を差し伸べて立ち上がらせると、先程のパン屋とその隣りの帽子屋の間の細い路地へ入っていく。パンの焼ける匂いに満たされている人1人分の幅の道を進み、店の角を曲がったところで立ち止まる。辺りを見回し、腰掛けることのできそうな段差を見つけると、そこに座るよう2人を促した。2人が並んで腰掛けると、ノエルは簡易な救急セットを取り出した。
 
「傷を診せていただくことはできますか?」
 
 男が頷いたため、ノエルは遠慮がちながらも手を伸ばし、右目の上の前髪を掻き上げようとする。しかし、男は苦笑いしながらそれを静止する。
 
「これは怪我じゃねぇよ。痛てぇのは確かだが、そんな消毒液とガーゼで何かできるもんじゃない。何かしてもらえるとしたら、今転んで擦りむいたところだけだ」
 
 そう告げられ手を下ろしたノエルの方へ、左足を差し出した。ノエルはもう一度目の上の腫れを見て視線を足の傷へと移し、そっと、しかし手際よく、擦りむいた部分の消毒を行う。数分で終え、できました、と伝えると救急セットを速やかにしまう。
 
「ありがとな」
「いえ……」
 
 手当てが落ち着いたところで、優先すべきことが終わるのを黙って見ていた白衣の男が口を開く。
 
「なあ、研究所について聞きたいことってなんだ? 戻りが遅いとまずいんで、手短に終わらせてもらいてぇんだが……」
 
 上の者の視線に怯えながら働いているのだろう。焦りと不安の伝わってくる口調だった。それを聞いて、ツナギの男はまた縋るような表情に戻り白衣の男の方を向く。
 
「なあ、あんたらの立場も分かるが、頼むよ。もう俺は帰りたくない。耐えられねぇよ……」
 
 白衣の男は苦悶の表情を浮かべ、その縋るような視線から逃げるように俯いてしまう。
 
「お2人ともお辛い事情を抱えておられそうなところ、申し訳ありません。私どもは各地で起こっている揉め事や混乱、事故、怪奇現象などがとあるものと関わりがないか調べ、解決することを目的として動いています。
 ある情報より、そちらの研究所の状況を調査することとなりました。研究所内で行われていることについて知りたいのですが、ご協力願えますか?」
 
 彼らの様子から問題の件と直接関わっているのはほぼ間違いないだろう。なんとなく状況の察しはついていたが、できる限り正確な情報を得なくてはならない。語るのは辛いかもしれない。申し訳ないと思いながら、冷たくはないが凛とした声で、ノエルは依頼した。
 
「その、ラタトスク……? なんていう組織は聞いたことないが、あんたに話せば解決してもらえんのか? 簡単な問題じゃないぞ」
 
「ラタトスカルディア、といいます。公にはなっていませんが、国の運営する組織です。必ずしも解決できるという約束はできかねますが、全力を尽くします」
 
 ノエルの揺るがない表情を見ながら、男たちは頷き合うと、聞いて気持ちのいいもんじゃないぞ、と呟き、ツナギの男が先に説明を始めた。
 
「俺はダン・ボスワースという。別の村で靴職人をしていた」
 
 ダンは両膝に豆だらけの手を置き、一瞬空を見上げた。
 
「ある日、店に押し入ってきた知らない奴らに、否応なく連れ出され、両手を縛られ、何も持たず、誰にも何も告げられず、この街に連れてこられた。それが約1ヶ月前の話だ」
 
 話す声は重たく、暗い。顔を上げられないままの白衣の男は震えながら聞いていた。ノエルはそれにも気付いていたが、ダンからは極力目を逸らさない。
 
「その後数日、研究所の中――――恐らく地下だと思うが、外の見えない部屋に、同じようにわけのわからないまま連れてこられた奴らと一緒に閉じ込められた。与えられたのは食事と番号の振られたリストバンド、それからこのツナギだけだった。名前を聞かれることはなく、番号で呼ばれ、こまめに身体測定をさせられた」
 
 ノエルは必死に頷きながら聞く。白衣の男は耐えきれなくなり、目に溜まっていた涙を一粒地面に落とした。ダンは少し気遣うように白衣の男を見遣るが、話は止めない。
 
「ある日、部屋から呼び出され、また別の部屋に1人で入れられた。今度はショーケースみたいなガラス張りの部屋で、周りには同じように1人ずつ隔離された奴らがたくさんいた。
    ――――そこから、地獄の日々が始まった」
 
 ダンの手に力が込もり、ツナギにできた皺が深くなる。それからのことを、今の痛みを、苦しそうに語り始める。
 
「ここで行われてるのは、人体の改造のための実験だ。得体の知れない薬を注射され、痛みに悶え苦しむ姿とその結果を観察される。俺が投与されたのは筋肉の増強剤だったらしい。中途半端に目の上と左腕だけが膨れて戻らず、痛みが残った。薬の成分や割合を変えでもしてるんだろう、毎日同じことの繰り返しだった。痛みで気が狂いそうになったこともある。でも、実験を止められることはない。成功するか身体が壊れるかのどっちかの結果になるまで続けられるんだろう、と思ったら耐えられなくなった。で、いまさっき隙をついて逃げてきたとこだ。
 ......嫁さんも息子も置いてきちまって、連絡もとれないままだ。2人ともどうしてっかな」
 
 白衣の男が息を呑んで顔を上げ、ダンを見た。
 
「そうか、そうだよな……みんな、家族とか友人とか恋人とか、いるよな……」
 
 再び視線を下に落とし、掠れた、震える声で白衣の男は続ける。
 
「許さなくていいが、すまなかった……」
 
 ぽつり、ぽつりと紡ぐ白衣の男の言葉を、ノエルは静かに真心で聞き、ダンは黙ったまま男に真っ直ぐな眼差しを向け、真剣に受け止めていた。
 
「俺はグレイグ・レイノルズという。……2年間、ここで研究員をやっている。
 本来ここは主に難病に効果のある新薬を開発するための研究を行っていた、真っ当な研究所だったんだ……。臨床試験も正しい手順を踏んで、可能な限り安全に行っていた。
 1ヶ月と少し前までは、誇りを持って仕事をしていた。忙しかったが楽しかった。毎日が充実していた。
 ある日突然、研究所に依頼が来たことを聞かされた。そこから始まったのが今回の非人道的研究だ」
 
 後悔と不安で震えていた声には、遣る瀬なさや怒り、悲しみ、いくつもの表しきれない負の感情が混ざり始める。
 
「誰からの依頼なのか、どうしてこんなことを引き受けたのかは一切聞かされず、否応なくそれは始まった。やりたくなければ仕事を辞めてしまえばいい、ということでもなかった。情報の漏洩防止で誰も抜けることは許されなかった」
 
 いつの間にか、ダンも視線を落としていた。苦しそうなグレイグを見ていられなくなり、心の中の何かはっきりと分からない感情と葛藤していた。
 
「抗議すると、研究開発のチームからは抜けさせられた。薬を創ったりそれを投与したりすることは逃れられた。そして今のダンたち、“実験体”と呼ばれる人たちの監視役となった。監視役はだいたい5、6人に対し1人がつけられ、ほぼ24時間体制で脱走の防止と体調の変化の確認を行う。“実験”にも立ち会わされる。もっとずっと酷い目に遭わせてしまった奴の前で言うことじゃねぇが、気が狂いそうな役割だ」
 
 それでもグレイグはその役割を続けた。逆らう者は自分自身や家族を実験体にされた。研究者や監視役の中で精神を病んでしまった者も同様に実験体とされていた。
 
「俺は自分の身可愛さに何もできなかったんだ。今も自分のためだけにこいつを、ダンを連れ戻そうとしていた。閉じ込めて、番号で呼んで、食べ物と飲み物だけ運んで、人間扱いしなかった」
 
 自分を責めながら、今更だと思いながら、グレイグはダンの名前を彼なりの丁寧さを込めて呼ぶ。そして、もうやり直す資格さえないのだろうと思い、更に自分を責める。
 重い空気に押し潰されそうな沈黙が束の間流れるが、ダンの言葉がすぐにそれを破った。
 
「人間扱いしなかった、ってことはねぇだろ。グレイグ、俺は俺たちの監視役があんたでまだよかったと思ってる」
 
 グレイグは驚きで目を丸くし固まってしまう。
 話しているうちに太陽が動き、日陰に座っていたはずの3人は、いつの間にかほの温かい陽光に照らされていた。
 
「研究所の連中はゴミでも見るような目で俺らを見ていた。あんたは、あんただけは他の奴らがいない時だけでも俺らの話し相手になってくれた。バレたらまずいからこっそり飲めって、1回だけ痛み止めの薬もまとめて持ってきてくれただろ。
 あんたにはまだ心が残ってるって感じたら、ほんのちょっとだけ安心できた。だからって耐えきれるわけじゃなかったけどな」
 
 作っているようにも本物にも見える笑顔でダンが言う。どちらが本当かはわからないが、グレイグにも安心感を与えたいという気持ちは確かなものであるように感じた。
 
「ダン、お前……この俺にまだ人間らしい心があるっていうのか?」
 
「じゃなかったら心の隙をつこうとしたり見逃してくれるよう頼んだりしねぇよ。話の通じない血も涙もない奴だと思ってたらまだ手足が動くうちにぶん殴ってもっと暴力的な方法で確実に逃げてる」
 
 グレイグはまた1粒の涙を零した。頬を伝い、顎に達すると、ゆっくり落ちて地面に吸い込まれていく。
 
「すまなかった。すまなかった……」
 
 その場に膝を着き、頭を深く下げて謝る。白衣に着く土など一切気にしていなかった。ダンはたじろいでしまうが、すぐに顔を上げさせようとして1歩近づきしゃがみ込む。
 
「やめてくれ、お前を責める気はない」
 
 少し困ったような表情で肩に手を乗せるが、グレイグはまた顔を上げられない状態で、微かに震え続けている。ノエルは2人の姿を心に茨を巻き付けられる気持ちで見ながら、少しの間をとって、できるだけ穏やかに口を挟む。
 
「お2人とも、ここまで耐えてくださり、お話を聞かせてくださり、ありがとうございました。あの研究所にはもう戻らないでください。もう少しだけ、ここに居てくださいますか?」
 
「どうにかできるのか? だったらダンだけでも……」
 
「いえ、あなたも一緒に、です。グレイグさん」
 
 困惑と安堵が共存する瞳を向けるグレイグと、この状況で逃げるなら一緒にだと当然のように思っているダンへ、ノエルはこの後の流れを丁寧に伝え始める。
 
「近くにいる仲間に援助を求めます。同じ組織の信頼できる者です。ここに迎えを呼びますので、到着を待ち、お2人は仲間と共に見つからないように避難してください。その際には仲間の持ってくる衣類で変装をお願いします。念のため、関係のない人たちにも顔はできるだけ見られないようにしてください。行き先は道中に仲間が説明してくれるでしょう。移動のために必要なものはすべてこちらで用意します。長時間の移動となりますが、現在の体調は大丈夫ですか?」
 
「いや、俺にはそんな資格は――――――」
 
 ノエルは渋っているグレイグを見遣り、その説得はダンへ委ねる。
 
「ダンさん、どう思われますか?」
 
「そんな資格は、ある、だろ。グレイグだって被害者だ」
 
 きっぱりと言い切るダンを見て、グレイグはまた泣きそうな表情を浮かべ、ノエルは柔らかに目を細める。
 
「だそうですよ。あなたも傷付きすぎました。充分に苦しんだはずです。ダンさんへの償いなら、一緒に逃げれば後でいくらでもできますよ」
 
「そう、か……。分かった、従うよ。――――――あんたはどうするんだ?」
 
「私はあなた方にいただいた情報を元に調査を続け、一刻も早くその研究をやめさせる方法を考えます」
 
 言いながら、ノエルは研究所のある方向へと視線を移した。今は直接はその建物は見えないが、その瞳には強い意志が秘められている。
 
「あんた1人でか?」
 
 グレイグは驚きと心配の表情を浮かべ、一見非力そうなノエルを見遣る。ダンも同様に眉を顰めている。
 
「現地ではひとまず1人で動くつもりですが、あなた方の誘導を頼んだ方々を含め、状況を共有しサポートしてくれる仲間がいます。……大丈夫ですよ」
 
 ノエルは静かに笑ってみせる。2人は食い下がろうとするが、何かあれば応援を呼べますから、と付け加えることで牽制したノエルに何も言うことはできなかった。
 
 
「少々お待ちいただけますか?」
 
 そう告げて、返事がないことを肯定と捉え、ノエルは元来た道を歩き始める。そして瀟洒な外観のドアの前に立ち、薔薇をモチーフとしたノブに手を掛け、ベルの音を小さく響かせて、良い香りを漂わせていたパン屋へ足を踏み入れる。広すぎず狭すぎない店内を見渡し、店員にお勧めを尋ねると、並ぶパンを示しながら快く教えてくれた。答えてくれた若い女性店員にお礼を告げると、彼女のお勧めのパンと日持ちのしそうなパンを数個、そしてジャムとマーガリンを購入し、やや大きめの袋を両手でそっと抱えて店を後にした。
 
 戻ってきたノエルを見ると、ダンとグレイグはまた眉を顰める。それに苦笑いをして、ノエルはしゃがんで薄茶色の紙袋を差し出す。
 
「こんな時に、と思われてしまうかもしれませんが、よければ、こんな時だからこそ、食べておいてください。お店の方がお勧めしてくださったパンです。この後の移動が長くなる可能性もありますので、食べきれなかったものは持っていてください」
 
 ふっくらとした胡桃パン、卵とレタスの挟まれたクロワッサン、オレンジの輪切りの乗ったマフィン、チョコチップの鏤められたメロンパン、チーズとハムのホットサンド、そして程よい色に焼き上げられたバゲットに角型の食パン――――焼き立てのパンの温もりが袋越しに伝わってくる。
 
「いや、娘くらいの年齢のあんたに奢ってもらうわけには……」
 
「私のお金ではないんです。任務の活動費をある程度いただいていて、その中から出しています」
 
「活動費って、他に使うべきところがあるんじゃ……」
 
「いえ、使い方は自由ですので……。こんな時のためにあるものだと思っていますので、大丈夫です」
 
 グレイグとダンは顔を見合わせる。自然とその表情は緩み、各々紙袋に手を伸ばし、中からパンを1つずつ取り出した。
 
「ありがとな」
 
 手に取ったパンの確かな温度を感じながら2人は同時に告げ、グレイグはクロワッサン、ダンはホットサンドをそれぞれゆっくり口へと運んだ。咀嚼する音が柔らかく響く。ほんの一瞬取り戻した心の安寧と、路地に入り込んだ仄温かな風が静かに共鳴していた。
 
 




    読んでくださりありがとうございました。誤字脱字、分かりにくい表現など、お気付きの点がございましたら教えていただけると幸いです。



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