見出し画像

結刃流花譚 第1章 ~ 残り香の調べ⑤ 弱さを嘯く ~


    前から読み続けてくださっている方も初めて目に留めてくださった方も頁を開いてくださりありがとうございます。お時間の許す時に読んでみていただけると幸いです。





「待て!」

    部屋の奥の方から太く明瞭な声が響いた。それに反応し、庵はすぐさま動きを止める。しかし、率先して庵に続こうとしていた真光は咄嗟に自分の勢いを制止できず、顔面から庵にぶつかり、鈍い音と共に2人は転がるように部屋の中に入ってしまう。倒れた床はそこにあるのに靄がかかっているかのように明確に見えず、外観から想像される畳の敷かれた床の硬さよりは幾分柔らかい気もした。

「悪ぃ!」

    焦りの色を浮かべて謝る真光と体勢を立て直す途中の庵を眺めていた清春たちは、次の瞬間一斉に目を見張る。真光と庵の斜め上からは弧を描いたような形の風の刃が迫っていた。

「真光! 庵さん!」

    2人の名を呼びながら清春も部屋に飛び込み、伸ばした両手で前に押すことで形を持つ風の攻撃から逃れさせようとした。しかし庵にはその必要はなく、自分でその軌道から外れる位置へと実を翻しながら、真光を守ろうとその腕を引き寄せるように引っ張る。それとほぼ同時に清春が真光の背を押す形となり、重なって倒れ込む。そのすぐ後ろを風が通り過ぎ、一旦は3人とも無傷で済んだ。
    今越えた敷居を境目に、部屋の中の鋭い風の音が煩いくらいに聞こえるようになっていた。そこが武家屋敷の一室とは思えない、外と切り離されてしまったような妙な感覚を覚えた。禍々しい空気は一際濃く重くなり、その中で無数の風の刃は無秩序に空を切り裂いて回っている。1度避けることができたことに安堵する間もなく、淀んだ空気がまとわりついているところに、すぐにまた別の風が近付いてきた。清春もそれ自体には気付いていた。しかし、耳の聞こえの所為で背後から襲いくる風とその距離感を正確に把握することができなかった。

「清春!」

    今度は真光が清春の上腕を引いて風の軌道からその体を逸らせる。間一髪のところで風は清春の左肩付近を通り抜けていった。

「ありがとう」
「お互い様だ。俺もさっきは危なかった、ありがとな」

    焦り驚きながら、清春は咄嗟に礼を伝える。いつ風が直撃してもおかしくない、余裕などない状況であったが、縮まった距離のまま真光も先程の礼を伝え返す。どのような場面であっても2人にとってはおざなりにしたくない言葉を交わすその間にも、また別の風が髪を掠めていく。

「庵か。一緒の2人も急げ、こっちだ!」

    先程と同じ声がした。聞こえてきた方に目を遣ると止め処なく風の行き交う空間に数枚の札が浮かび上がり、それに囲われた3間(約5.5m)程の範囲の中に複数の人の姿が見え始める。風が形あるものとして見えているだけだった場所でそれは次第に明確になっていく。

「幸志郎班長」
「走れ! 結界の中まで!」

    庵が呼ぶ声に声が被った。もう1度、轟く風の音にも掻き消されない大きさで、空気を切り裂くように響く。

「行け」

   庵に促され、向き合っていた清春と真光は身体を回転させ示された方へと走り出す。足元は鮮明には見えないままだが、床を蹴って進む感覚は明確にあった。真光が半歩前、その斜め後ろに清春が続く。さらにそのすぐ後に庵が向かってくる風と重たい空気を剣で払いながらついてくる。
    結界に近付くにつれ、目に映る呼び声の主の姿がさらに明瞭になってきた。父や継父と同年代であろうと思われる鈍色に見える髪の男性は、真剣な視線をこちらに送りながらその結界の中央に立っている。人差し指を立てた形で両手を組み、半月のような形の結界を張り、様々な角度から切りつけるように吹く風から10人ほどを守っていた。向き合い座り込んでいる彼らの年齢層には幅があり、その服装から屋敷の使用人たちと思われた。何かを作っている途中で巻き込まれたのか、生成の前掛けをつけている手に菜箸を持ったままの女性もいる。
     風が身体を掠める度に小さな痛みを覚えながら走り続け、結界まで後もう少しのところで真正面上方から風が唸りながら迫ってくる。それをしっかりと目で捉え、避けるように身体を捻りながら清春と真光は結界の中へと入り込んだ。

「怪我はないか」
「平気だ。ありがとう」
「大丈夫です、ありがとうございました」

「いや、俺は元々張ってた結界の方へ呼んだだけだ。
    そうか、おまえらが――――――、いや、何でもねぇ。……来てくれたんだな。こっちこそありがとな」

    清春と真光を一瞥した男性――――天叢雲班長の幸志郎が目を細める。濁された言葉を零す時、その目の色が変わった気がして少し気にはなったが、深く言及するほどのことではないと感じそれはすぐに薄れていく。最初から手伝いにきた受験者だと察してもらえていたようで、得心した様子で受け入れてくれた温かみのある声色に安堵する。これまで面識のなかった清春たちに感慨深い表情を浮かべながらかけてくれたのは峻厳そうな容姿よりもずっと柔らかな声だった。
    清春と真光が幸志郎と簡単な会話を交わしているうちに、真横からの風を避けるため結界まであと少しのところで方向転換していた庵も中へと入ってきていた。その風の所為だろうか。本人は気にしている様子はないが、藍染の羽織の裾は縦に裂けていた。

「1人じゃ制止できん状態になっちまって、かたじけねぇ」

「班長の所為ではありません。謝罪などなさらないでください。この空間の安定化を図ったのも、火事の進行を遅らせたのも班長でしょう」

    普段の淡々とした庵の声とあまり変わりはないが、その発言からは敬意が滲み出ていた。

「紡に託された文、確認しました。現在は二手に別れて動いています。俺たちの他、部屋の前には清乃と新入隊員候補1名、杏がおり、火事と雷獣の対応は菊之介、絢悠、新入隊員候補3名、紡が行っています。隊長と副隊長も合流予定です」

「気ぃ遣わせてすまんな。しかしそんなに来てくれてるのか、ありがたい。まさか隊長や副隊長たちまで動いてくれるとはな。
    この姿勢のままですまんが、ちょっと今の状況を説明させてくれ」

    庵が頷き、姿勢を変えないまま幸志郎は続けようとする。

「まず――――」
「あの」

    幸志郎の背後で集まって座っている使用人たちの間から、その中で蹲っている人物がいるのが目に入る。禍々しい空気の影響だろうか。怪我を負ってしまったのだろうか。また別の持病か何かだろうか。清春は心配の色を浮かべ、幸志郎の言葉を遮ることに対しては申し訳ないと思いながら、控えめに口を開いた。

「大丈夫ですか……?」

    中央の人物と清春たちのことを交互に気にかけていた周囲の使用人たちが振り返り、中に視線が届くよう間を空ける。清春の目線の先で10名に囲まれ蹲っている男性は、周りの使用人たちと似た小袖を着ている。
痛みと焦燥の募る表情をしており、印象が普段とは異なるのかもしれないが、年は30代半ばに見える。脚を押さえ、怪我を負っているようだが、今は手当ができる環境ではないだろう。どれくらいの間そうしているのだろうか。命に別状はないのだろうか。
    ああ、と呟き幸志郎は表情を曇らせる。隠していたわけでも、ましてや忘れていたわけでもない、しかし率先して説明しようとはできていなかった状況の説明を始める。

「この風――――、鎌鼬にやられた。特質上これに当たっても血は出ねぇんだが、ふくらはぎの辺りを裂かれている。重症とまではいかないが相当痛いはずだ。
    ――――――すまねぇな。もう少し耐えてもらえるか」

    本人は言葉は発せず必死に頷いて応える。上げた顔を強張らせ、少し怯えているようにも見える。それを見て、少しでも何かできることを願ってここに来た清春は今彼に対して何もできないことを申し訳なく思う。同様になす術のない周りの者たちは不安と心配の色を浮かべ、縋るように幸志郎の方を見ていた。その重圧を受けながらも、幸志郎は落ち着いた態度を崩さない。深く考えずとも彼のその姿勢が周囲の者たちを必要以上に不安にさせないためのものだと理解し、清春と真光も幸志郎への敬意を抱く。

「彼に傷を負わせたこの鎌鼬は西賀(さいが)氏が生み出したものだが、今は制御できなくなり誰の意図も関係なく暴走している」

    結界の外では勢いの衰えることのない鎌鼬が飛び交い続けている。改めて先程まであの中にいたのだと考えると今も無傷であることが信じられない。

「止められそうですか」

    使用人のうちの1人、目元に深いしわの刻まれた大らかそうな雰囲気を持つ年配の男性が問う。静かだが貫禄のあるその声の方に視線が集まる。心配の色は窺えるが、不安や動揺を隠しきれていない他の使用人に比べると彼は随分落ち着いているように見えた。

「善処します。十分かはわからないが、人手が随分増えた。安心してほしい」

    幸志郎は保証のない絶対は伝えず、それでも誠意の込もった返答で彼らの不安を軽減しようとしていた。訊ねた男性のその表情からは完全には憂慮は消え去らないまま、それでも少しの安堵を湛えながら清春たち3人を順に見て柔らかな物腰で深々と礼をする。

「頼みます。状況が厳しい場合には、奥様と直(すなお)様、環(めぐる)様、そして若い者たちを優先して守ってもらえるとありがたい」

    その切実な瞳と言葉に、誠実に応えたいと思った。気持ちを引き締められ、このような場面で少しでも信頼してもらえることのありがたさが身に染みる。それと同時に上手くいかなかった時のことがより怖くなり、気負いや緊張感も増していく。
    西賀氏というのがこの度の依頼人、この家の主人の名前だろう。手紙には闇雲(やみぐもり)が呪術を発動したとあったが、発動したのは依頼主だったのか。それとも呪術とは鎌鼬とは別のものを指しているのか。しかし何故、依頼主は自分の屋敷で身内を巻き込んでまでこのようなことをしたのだろう。闇雲(やみぐもり)への抵抗だろうか。本人は今どこにいるのだろう。
    渦巻く思考が読まれたわけではないが、状況を上手く把握できない状態の清春たちの中に疑問が多く生じていることを察していた幸志郎が続ける。

「簡単に説明できる状況じゃねぇが、懇切丁寧に説明してる余裕はねぇ。ざっと説明するのをおおまかに理解してくれ。清乃ともう1人も聞こえてるか?」

「はい」
「聞こえています」

    部屋の外からすぐに返事が返ってくる。2人と杏を残し入ってきた場所へと目を向けると、天音と清乃は開いた障子戸の左右に分かれ、身を半分隠し覗き込むように様子を窺っていた。

「よし。声が届くならまだ入らずにそのまま聞いてくれ。
    今ここでは複数の術が同時に発動されている。一部は呪術の類だ。まず、一見わかりにくいが、今この部屋の中は外と切り離された空間になっている。空間は作り出されたもので、広さも高さも実際のものより随分広くなっている。幸い強くはないようで、紡は出ていくことができたようだが、少なくとも術の心得や耐性のない者は入ると外には出れなくなる。制限されるのは人や妖の出入りだけじゃなく、この中で発動された他の術はこの中だけで有効だ」

   紡が出て行くことができた、入ることはできる、会話は聞こえるなど完璧ではないようだが、外から風の音が一切聞こえなかった理由はこれだろう。その効力は明確にはわからないが、外部の無関係の者を鎌鼬が襲うことがない状況であることはせめてもの救いだったのかもしれない。その一方で禍々しい空気がそのまま流れ出していたのは、術の不完全性のみが原因ではなく、それを生じる思いの強さが大きく影響しているのだろう。

「これはそこで取り乱してるやつの仕業だ。悪意があった訳ではねぇんだろうけどな。何にせよ、今このまま止めると外にも被害がでちまう。術は発動させたまま、この中でこのまま蹴りをつけたい」

    そう言いながら鋭い目つきになる幸志郎の視線を追うと、その先にはまた別の小さな結界が張られていた。今まで気付かなかったが、先程と同様にその存在に気付くとその中の人物も見えてくる。結界を張ることに必死になっている様子の小柄な男性と、それに守られながら怯えた顔で自分の足を手で払い続ける男性。
     座り込んでいる方の男の姿に、清春と真光は同時に息を呑んだ。その足の先は生きている人間のものとは思えないほど青紫色に変色しているのが遠目にもわかった。

「あいつがこの度の件の首謀者、といったところか。いや、さらに元を辿れば西賀氏から始まったともいえるが――――――。
    あれはあいつが西賀氏にかけようとした身体が壊死していく呪いだ。西賀氏の呪い返しを受けてあいつ自身が呪われている」

    離れていても目を覆いたくなるような術の影響を受ける男性の焦り様を見ていると心が疼き、その原因が彼自身だとしても、救う方法を探して手を差し伸べたくなる。決して平常心で見ていることのできる光景ではない。隣で言葉を失っている真光もきっと同じ気持ちなのだろう。その瞳は大きく揺れている。
    隠しきれない清春と真光の想いは幸志郎にも気付かれていた。しかしそこに触れられることはなく、説明は敢えて平然たる態度と口調で続けられる。

「だがそれも中途半端で、幸か不幸かその強さは半減され進行が遅い。そして、あいつは壊死に伴う身体的な違和感や痛みは感じていない。感じているのは目に見える自分の身体の変化に対する恐怖だけだ」

    不可解な状況を告げられ、既に様々な想いが心の中で入り乱れていた清春と真光の思考は追いつかず困惑してしまう。どういうことなのか問おうと庵が口を開きかけたが、言葉を発する前に幸志郎が続きを説明する。

「数日前、あいつは西賀氏に別の呪いをかけていた。術者が皮膚で感じるすべての不快感――――痛み、痺れ、痒みといったような感覚を術者の代わりに感じるという呪いを。これだけだと些細な嫌がらせのようにも思えるが、自分の身体には何も起こっていないのに感じるはずのない原因不明の感覚があったりしたら気味が悪く不安にもなるだろう。そのたちの悪い呪術が今も続いている。あいつの足が壊死していく感覚は西賀氏が実際には何ともないはずの足で感じているはずだ」

    そのようなことが可能であるということも考えると恐ろしいが、身体が壊死していく感覚というものは想像ができない。せめてそれを今実感している西賀と実際に足が壊死している闇雲(やみぐもり)の想いを想像しようとするが、もしそれが自分の身に起こっていたらと考えると、未知の恐怖から平常心を保てなくなってしまいそうになる。彼らの間に何がありこのようなことになってしまったのかは聞いていないが、ここまでの想いをする必要があるのだろうか。今すぐに何とかして術を止めることはできないのか。これまでに何があったのだとしても、もう十分に苦しんでいるのではないか。とても何もせずに見ていられる状況ではない。そんなことはしたくない。その苦しみを分けてもらうことはできないのか。自分が今飛び出していけば何かできるのでは――――――
    相手のためなのか自分のためなのかもわからない思考が次々と湧き上がってくる。具体的な方法がわからないままなのにも関わらず、今すぐにでも動きたい、何かしなければ、という想いに駆られる。無意識のうちに握り締めた拳が震えていた。覚悟と呼ぶには不安定すぎるものに支配され、一歩を踏み出そうとした。
    それに気付いた庵が目線だけを清春に向け淡々とした声で告げる。

「同情は冷静な判断を妨げる」

    一瞬時が止まったかのような錯覚を起こし、その言葉だけが響いた。清春は身体を強ばらせる。自分自身の脆さを自覚させられるには充分だった。

「……すみません」

    大きくは出せなかった声で返し、反省しながら視線は斜め下に向けてしまう。目に映った自分の足がとても頼りなかった。
    庵が清春のために事実を告げてくれていること、彼なりに考えすぎてしまう清春の心の負荷を軽減しようとしてくれていることはわかる。このような場において後先考えずに感情に任せた動きをとるわけにはいかない。
    庵の言葉は正しい。声をかけてもらえて良かったと思う。
    同情は時に自分自身の判断を鈍らせ、時に相手の誇りを傷付ける。だが、簡単に切り捨てられる想いでもない。完全に失くしてしまえば、苦しむ誰かを目の前にしても淡々と役割をこなせるようになってしまえば、大切な何かも壊れてしまう気がする。本当の意味で誰かを救うために相手の気持ちを理解しようとできる心は時として必要だ。しかしそれで何かを見誤り、守れたはずのものを守れなかったという事態は引き起こしてはならない。心はとても大切なのに面倒だ。

「自業自得だといって見捨てようってわけじゃねぇんだ。おまえは間違っちゃいない。ただ、まずは状況を把握してくれ。そんで、庵は言葉を選べ」

    幸志郎の言葉に清春は意識してまた視線を上げ、庵は逆に軽く目を伏せる。

「 続けても良いか?
    ――――それで、その西賀氏は本来“呪いを術者の元へはね返し己の身を守る”というだけのものである呪い返しと組み合わせ、鎌鼬で相手をさらに痛めつけようとした。鎌鼬自体は別に呪いじゃないし禁止もされてないが、守りの術と併せて使うとなると変わってくる。他の術とは根本的に違う守りの術の在り方を変えるのはそれ自体への冒涜だ。今回みたいに攻撃性のあるものにしちまうなんて以ての外だ。
    そもそも、2つの術を同時に発動するなんざ容易にできる人間はそういない。術の類は狐や狸、鼬の得意分野だ。自分の力を過信していた西賀氏の術も結局中途半端だった。適切に行使されなかった術は制御できる範疇を越え、今回みたいに暴走することや術者自身を蝕むこともある」

    幸志郎の説明を聞いている間にも、何の意思もなく無秩序に飛び交う鎌鼬の音が鋭く虚しく響き続ける。その幾つかは結界にぶつかった時点で刃物に罅が入り砕ける瞬間のように霧散していく。

「西賀氏がいるのは鎌鼬の生じている場所、その数と激しさではっきりとは見えないがあの辺だ」

    幸志郎が闇雲(やみぐもり)の張る結界よりも右手の鋭い風が一段と密集している場所を顔を向けて示す。そこでは無から攻撃的な鎌鼬が生まれ続けていた。

「鎌鼬の動きは制御できていないが、生み出され続けているのはそこに西賀氏の強い意思があるからだろう」

    飛び交う鎌鼬には何の意思もないようであるが、生じるその時点では西賀の心とまだ連動しているというのならば、悲しい光景だ。傷付けようとする心が止め処なく次々と形になっていく。無傷で近付くことは難しそうである。

「彼は恐らく結界を張って身を凌いでいる。まあ、元々の闇雲(やみぐもり)の呪いもあるし、結界もちゃんと張れてるのかわからん。自分だけを守ろうとしていた様子だが、完全に無事ではないだろうな」

    西賀の姿は確認できない。彼が今何をどのように感じ、どのような意図を持って動いているのか、知る術はあるのだろうか。それにより、何かできることを見つけられるだろうか。見つめ続けていると鎌鼬の音が悲鳴のようにも聞こえてきた。

「あと、気を付けて動かないといけねぇのがそのさらに右の結界だ」

    言われて首を捻り視線を向けた先では、また次第に結界が見えるようになる。その中では母親と思われる女性と2人の子どもが身を寄せ合っている。恐らく西賀の妻と息子だろう。男の子2人は5~7才といった年齢で、使用人の男性は直(すなお)と環(めぐる)と呼んでいたか。泣くのを我慢しているかのような顔で、2人とも母親の両横でその若草色の着物の袖にしがみついていた。母親は気丈に子どもたちを守ろうとしているようであるが、その瞳にはやはり怯えと不安の色が浮かんでいた。座り込む彼女の膝の近くに抜かれた短刀が転がっているのも気になる。手が届く位置にあるのに拾われてはいないそれは、彼女らの護身用、というわけではないだろう。

「この屋敷の奥方とご子息たちだ」

    声は届いていないかもしれないが、視線に気付き、彼女もまた縋るようにこちらを見て頭を下げる。

「復讐対象である西賀氏に見せつけるためだけに闇雲(やみぐもり)に痛めつけられるところだった。1度刃物を突きつけられている。兄弟の怯えも仕方ないと理解してやってくれ」

    短刀の転がる理由はわかったが、気分良く聞ける理由ではなかった。老齢の使用人が口を開きかけた気がしたが、言葉が紡がれることはなく息苦しさを感じる空気が流れ続ける。
    本当に、何故このようになってしまったのだろう。どうしてこの人たちが傷付け合わなくてはいけないのだろう。巻き込まれてしまった彼らにも少しでも早く安心感を与えたい――――。

「あの結界は使用人の梅枝(うめがえ)さんが張っている」

    名を出しながら幸志郎が見たのは先程の老齢の使用人だった。前で重ねられていた手はただの習慣づいた印象の良い姿勢なのではなく、結界を張るために組まれていたのだと気付く。その形は幸志郎のものとは僅かに異なり、人差し指を立て、それに中指を絡ませた状態で両の手が組まれていた。細く皺だらけだがそれなりに大きな手を、清春は優しそうな手だと感じた。
    結界を張るために必要な技術や体力については詳しくは知らないが、随分と消耗してきたのだろう。表情は冷静さを崩さないように努めているようだが、その額に汗が滲み始めていた。

「私の力ではいつまで持つかわかりません。しかし豊美(とよみ)様、直様、環様は守り通さねばなりません。どうかお力添えを」

    幸志郎は勿論だというようにその言葉に1度深く頷く。かたじけない、と呟き頭を下げる梅枝の顔には感謝の表情が浮かぶ。

「厄介な呪術の類も混ざっている。下手に動くとこの場の者全員が危険に晒される。手分けして術の解除とそれぞれの保護を順番を誤らないように行う必要がある」

    各結界を順に見渡しながら幸志郎が言うのを聞き、清春と真光も同様に確認した場所をもう1度目に映し、緊張した面持ちで頷く。庵は相変わらずの無表情であるが、心構えは当然のようにできているのだろう。対応すべきはこの空間の中では4箇所。可能な限り被害を広げずに収束させたい。

「すまないが、俺はここを動けん。負傷者もいる中、彼らを危険に晒すことはできん。結界を張りながら他の術に対応できるほど術の類に長けてはおらん。札の力がないとこの結界を保つことすらできん」

    自分の不利な状況や欠点すらもすべて認めそれを淡々と伝え、それでも続けて堂々と冷静に指示を出そうとしていた幸志郎は、開かれた障子戸の外に目を留めて一旦言葉を切った。
    天音と清乃と共に廊下にいると思い込んでいた杏が西の空から戻ってきた。羽ばたきを弱め、天音と清乃の間に優雅に降り立つ。3本の脚にはしっかりと木製の救急箱が掴まれていた。いつの間に離れていたのか気付くことはできていなかったが、どうやら菊之介たちの元へその救急箱を取りに行っていたようだ。

「杏、ありがとうございます」

    清乃が礼を伝えると、清春にだけは「どういたしまして」と聞こえる軽やかな声で小さく鳴き、救急箱を離しそっと羽を畳んだ。

 「奥方様とそのご令息お二方の護衛は私が引き継ぎます。ここまで守ってくださった結界の上からさらに結界を張りますので、安定したら梅枝さんは結界を解いて次の動きに備えてくださいますか」

    仕えるべき人たちを自分自身で守り抜きたかったと思っているように見えるのにも関わらず素直に助力を乞うことのできる梅枝の誇りを傷付けないよう、清乃は敬意を言葉に詰め込んで依頼する。

「わかりました。お願いします」

    そう返した梅枝の表情は幾分穏やかだった。返答後すぐに清乃は梅枝の結界を包み込むように新たな結界を張る。低い位置から構築されていくそれは透明な光を放ちながら瞬く間に完成した。それを見届けると体力が限界に近付いていた梅枝は自分の結界を解いた。安堵と一抹の寂しさの混ざった表情で、梅枝は小さく息を吐き、ゆっくりと組んでいた両の手を離す。引き継ぐところまでは持ち堪えた。自分にできるのはここまでだ。しかし、自分の老いがやはり少しだけ恨めしい。

「梅爺、ありがとう!」

    結界の中から様子を見ていた兄弟の兄の方が梅枝に向けてよく通る声で叫んでいた。それに続いて弟も「ありがとう」と声に出す。
    梅枝の目が一瞬大きく見開かれた。その瞳はまたすぐに細められ、優しげな笑顔を兄弟へと向ける。母親もそれを見ながら深々と礼をしていた。まだ何も喜べる状況ではないが、梅枝とそれを見ていた周りの者たちの心の中には温かなものが生まれていた。

「天音さんは救急箱を持って杏と共に幸志郎班長の結界の中へお願いします。鎌鼬は杏の起こす風である程度防げるでしょう。ただ、それでも危険なことに変わりはありません。怪我のないよう注意してください」

「わかりました」

    天音は真剣な表情で頷き、一旦床に置かれていた救急箱を受け取る。不安はあるが迷いはなかった。託されたそれを鎌鼬から守るため両腕で抱え込む。そして清乃に続いて部屋の中へと足を踏み入れ、誰にでもできそうな小さなことであっても、自分に与えられた大切な使命を背負い、痛みに耐える使用人の元へと駆け出した。


「庵、すまんがおまえは西賀氏の元へ行ってくれ。怪我をしに行けと言いたいわけじゃないが、今頼めるのはおまえだけだ。西賀氏が話せる状況なら、鎌鼬の新たな発生を止めさせてくれ」

「承知しました」

「清春、真光。おまえらは感覚を移す呪いと壊死の呪いの2種類のみを解くよう闇雲(やみぐもり)を説得してくれ。急に無茶を言っているのは承知だが、基本的には呪術は本人が止めるかそれより強い術で押さえつけるかでしか止められん。後者ができるほど術に長けている者は今ここにいる天叢雲の隊員にはいない。他にも方法がないことはないが使いたくない」

    重要な役割を任せられたことに少々驚き戸惑うが、すぐに気持ちは固まった。いや、先程も冷静さを失おうとしていた自分が任されても良いのかと動揺してしまっただけで、既に固まってはいた。

「やってくれるか」
「はい」

    清春と真光は声を揃えて返事をする。互いの意思は確認せずのことだったが、きっと自分と同じ返事をするだろうと信じ合っていた。実際にその通りであり、2人は顔を見合わせ頷き合う。人の感情を動かすことなどできるかどうかはわからない。言葉は上手ではない。恐らく相手の全部を理解できるわけでもない。正直、不安ばかりで自信もない。それでも自分たちにできることを精一杯やってみると決めている。

「あの」

    背後からかけられた声に振り返ると梅枝が傍まで来ていた。

「もし良ければ私も連れて行ってほしい。多少の術の心得はある故、助力できるかもしれません」

    体力を随分消耗していたはずだが、既に少し顔色が良くなっている。その姿勢は真剣だった。

「班長、さん。お願いしてもよろしいでしょうか?」

    清春はその気持ちを汲みたいと思い、首肯してもらえることを願って幸志郎に確認をとる。どう呼ぶべきか迷い、ぎこちなくなってしまったが、答えは期待通りだった。

「ああ、構わんが、結界の外に出ると俺の力では守りきれんぞ」

「ええ、承知の上です」

「では頼みたい。あなたの技術は高そうだ。お願いします」

    幸志郎が頭を下げるのに清春と真光も続く。

「ありがとうございます、お願いします」
「お願いします!」

「こちらこそ。呪いを止める術も心得ておりますが、個人的理由で私は彼も救いたい。無理に抑えるのではなく、まずは心を開いてもらえないか、できることをやってみましょう」

    杏と共に駆けてきた天音が結界の中に入って来るのと入れ替わるように、3人は闇雲(やみぐもり)の結界を目指して真っ直ぐに移動を始める。襲ってくる鎌鼬は視覚を頼りに避ける。微かに掠るのは気にしない。傷ができる度小さく痛むが、周りの彼らの痛みや恐怖、苦しみに比べるとなんてことはない。
    清春たちの背後を守るように続く梅枝の動きも年齢を考えると十分に速く、すぐに闇雲(やみぐもり)の張る結界まで辿り着く。通り抜けようとすると弾き返されるような抵抗を受けるが、梅枝が結界に触れるとそれは弱まった。
    思っていたよりも簡単に、3人は溜め込まれ続けた感情の蔓延するその空間に入り込んだ。






    読んでくださりありがとうございました。誤字脱字など、お気づきの点がございましたら教えていただけると幸いです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?