感想:ドキュメンタリー『最期の祈り』意思の所在

【製作:アメリカ合衆国 2016年公開 Netflixオリジナル作品】

米国カリフォルニア州オークランドにある病院のICU。病状が進行した患者は、気管切開をして人工呼吸器を装着するなどの機械による生命維持や、より高度でリスクやデメリットも伴う治療を行うか否かを選択する。
このとき、患者との意思疎通が困難な場合や、判断力が著しく低下している場合は、家族や医師が治療のイニシアティブをとることになる。
患者や周囲の人々の選択を取材し、人間の意思・生死の捉え方を取り上げたドキュメンタリー作品。

本ドキュメンタリーの大きなテーマは患者の意思の所在である。
冒頭のシーンでは、会話の難しい患者に、医師が筆談や指で指し示す文字盤を提案してコミュニケーションをとろうとする。
この患者は顔出しを許可していない人ということもあり、一連のやり取りでカメラは常に医師の顔を映し出す。
医師は、思考を頭の中で組み立てて指先を動かすことも難しい患者の状況を汲み取り、寄り添うべく、「そうだね。苦しいよね」「これは●●ということ?」など、盛んに言葉を発する。
これは丁寧な対応である一方で、医師を経由して発される患者の「意図」にはどうしても医師自身の主観に基づく判断が内在する。これは医師を家族など他者に置き換えても同様だ。
一方向的にみえる冒頭の「コミュニケーション」は、本作のテーマを象徴する。

このドキュメンタリーは、人工呼吸器装着に際して異なる選択を行ったふたりの患者とその家族を軸に構成される。
ふたりとも人工呼吸器をつければ延命は可能だが、回復の見込みは薄く、体力が落ち意識レベルも低い中を他律的に生きながらえさせる状態となる。人工呼吸器をつけない場合、苦痛は軽減されるが、数日単位の短い時間で死に至る。
患者本人は明確な意思表示が困難であるため、その決定は家族に委ねられる。彼らは医師から提示される情報、本人がみせる反応、元気だった頃の本人の言動、そして彼ら自身の信条や考えをもとに、選択を行う。

人工呼吸器をつけることを選択した患者の家族は敬虔なクリスチャンであり、昏睡状態に陥った患者がみせたわずかな反応に希望を見出し、この「奇跡」が再び起こる可能性を信じる。
患者の娘は、病状を説明した医師に「あなたたちは"奇跡"の存在を忘れている」と語気を強めて言う。
医学的な観点からは、こうした反応は根拠に欠けた感情的なものである。しかし、この家族は救急車を呼ぶことも躊躇するような経済状況であり、医療に満足にアクセスできないからこそ、神とその奇跡を頼りに生活していたことが窺える。

人工呼吸器をつけない選択をした家族は、患者の過去の言動の傾向をもとにその判断を行う。この患者は自然に呼吸をした最期の数日間は周囲と会話をすることもあった。

本作ではどちらの選択も正当性があるものとして示される。(人工呼吸器をつけた患者についても、死までの6ヶ月間のあいだに意識がはっきりした期間があったと述べられる)
人間の"意思"は社会背景や経済状況、宗教、価値観など、様々な要素が関係して醸成される。また、本人の意思決定が困難になった場合には、周りの人間が良くも悪くもその意思を"補完"する。
本作は意思の所在の重層性を浮き彫りにしたドキュメンタリーであり、それを象徴するように、患者はふたりとも形は異なるものの、家族たちに囲まれてその人生を終える。

ただ、このとき、家族がいない人は意思を補うことができない。
本作でも衰弱し、判断が難しくなったホームレスの患者が取材される。代理人のいない彼については、高度な治療を行う判断を医師の一存ではできず、機械につないで現状のまま延命するしかないと語られる。
本作は、人間が死に瀕してもなお平等ではない状況も示している。

また、この作品では取り上げられないが、ICUでの面会は家族のみが可能、家族が治療の判断を委ねられる、という状況においては、「家族」の定義や範囲も問題となる。
同性婚が認められない制度下において同性のパートナーがいる人や、家族との関係が良くなく友人や同僚に人生の最期を委ねたい人などにとって、家族を「最も近しい他人」とした制度設計は人生の選択を阻害するものである。
「意思の尊重」は端的な答えの出ない問題であるが、それ故に考え続けていく必要があると感じた。

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