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ハードボイルド書店員日記⑥

私は定時で上がる。
他の連中が全員残業していても変わらない。「お先に失礼します」と胸を張って店を出る。自分の棚の荷物がまだ残っていても関係ない。何か言いたそうな視線を投げ掛ける存在がいたとしても、私の目には栄養失調のしなびたカブにしか見えない。ブコウスキーは正しい。人間なんて野菜だ。

尤も「この本は素晴らしい。客がすぐ手に取れるようにしておこう」というケースにおいては事情が変わる。そういうときは身体が勝手に動く。時計のことなど脳裏を掠めもしない。私の中でこれは残業にならない。閉店後に翌日発売の村上春樹の新刊を並べる業務がいい例だ。会社が何も言わなければ残業申請すらしない。会社の本音は何も言いたくないが言わないことで何かを言われるのが嫌で、結局何かを言ってくる。会社も野菜だ。

東野圭吾の場合は残業になることもある。「悲しき酒場の唄」の新訳が出たら終電まで付き合う。復刊は翌朝まで。○○○○の新刊なら時給が50000円になっても帰る。

私とブコウスキーとの違いを述べておこう。ひとつ。私は野菜ではない。ふたつ。私は酔っていない。みっつ。私はあんなに読者を無条件に爽快にさせられる文章を書けない。共通項もある。ひとつ。競馬。私のデビューは高校一年生になりたての春だ。300円が2700円になった。ふたつ。マッカラーズへの敬意。「心は孤独な狩人」を読んで彼は何を感じただろう。ピアニストになりたかった彼女は作家として成功を収めた。はたして幸せだったのか。

私のポケットにはまだ死は入っていない。明日はたぶん昨日よりはましで明後日よりも退屈だ。勝手に生きる。やめておかない。

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