マガジンのカバー画像

随想(人について)

34
運営しているクリエイター

記事一覧

無駄な想像

ひとりの男性のことを、思い出すことがあります。その人のことを、ぼくは何も知りません。ただ、ある日の通勤電車の中で、同じ車両に乗り合わせました。

中央線だったと記憶しているので、それならば、ぼくがまだ30代の頃のことです。立川駅から乗って新宿駅に向かう途中で、いきなりドタドタという音が、ぼくのすぐ前でしました。見れば、若い男が床に尻餅をついています。大きな体の人でした。ネクタイをしていたので、おそ

もっとみる

根津甚八、小林薫、唐十郎

唐十郎さんが亡くなられた。

ずいぶん昔、芝居を観る習慣のないぼくは、唐十郎のことを、もしかしたら現代詩手帖で知ったのかもしれない。唐さんの密度の濃い文章を、現代詩手帖の誌上で、しばしば夢中になって読んだ記憶がある。

それで、テントへ行って、唐さんの芝居をいくつか観に行った。

根津甚八が水しぶきの中で叫んでいるシーンを、今でも思い出す。そのうち根津甚八がテントからいなくなって、小林薫が主人公を

もっとみる

ある青年の話

ひとりの青年のことを、思い出すことがあります。

ぼくの勤めていた会社は、大きな会社だったので、財務、経理、会計は、いくつかの部署に分かれていました。

ぼくが50歳くらいの頃、隣の部にひとりの新入社員が入ってきました。

外資系の経理というのは、語学と会計についての知識が必須で、だれもが自分の能力を上のものに認められたいと、必死に仕事をしていました。

そんな中で、その青年は、ほとんど目立たなか

もっとみる

「彷徨」という文字を見ると

「彷徨」という文字を見ると、思い出すことがあります。「彷徨」という文字を見ると、そのたびに、気持ちはひどく乱れます。

もう35年以上も前のことです。日本語ワープロが出た時に、わが家も「書院」というワープロを買いました。まだワープロが出たばかりの頃だったので、内蔵されている辞書にも、漢字数にも、限りがありました。

そしてそのワープロには、「外字」という文字枠が8つ用意されていました。外字というの

もっとみる

若い頃の、どうということのない話

ぼくが若い頃でも、中学生くらいになるとカップルができていた。放課後に、教室の窓辺に立って外を見ながら話をしている男女が何組もいた。ぼくはといえば、それが羨ましいとも感じずに、後ろを通り過ぎて帰っていた。

ぼくが初めてのデートをしたのは大学生の時だった。アルバイト先で知り合った女性を好きになった。適度に明るくて、目の大きなかわいらしい人だった。勇気を出してデートの申し込みをし、断られるだろうと思っ

もっとみる

西日

「西日」

これもずいぶん昔のことです。わたしがまだ若かった頃のことです。

ある夏の一日だったと思います。わたしと妻が足立区の姉のアパートを訪ねたことがありました。姉に旅行カバンを借りに行ったのだと記憶しています。生活臭のただよう畳の部屋に、姉と向かい合わせて、わたしと妻が座っていました。

隣の部屋では姉の息子が二人、友達を連れて来て、にぎやかに遊んでいました。その声がかなりやかましく、そのせ

もっとみる

「時が叶えてくれること」

「時が叶えてくれること」

 双子を持つ親の離婚率は、そうでない人よりも高いのだと、かつて聞いたことがあります。ホントなのかどうか知りませんが、そんなこともあるのだろうなとは思います。双子を育てる日常は半端なく大変だからです。

 私たち夫婦にも双子の女の子が生まれました。知っている限りでは、双方の親戚には双子はいませんでした。それだけに驚きもしました。双子を育てるのはどんなふうだろうと、のんきに

もっとみる

「もう悩む事はないんだから」

「もう悩む事はないんだから」

これも勤め人の頃の話です。2007年の春だったと思います。

朝からお台場で全社員会議でした。横浜駅から東海道線で新橋駅へ。殺人的な混雑ぶりでした。新橋で乗り換え、ゆりかもめで台場駅へ。こちらはうって変わってゆったりとしていて、乗り物は大きな空を浮かぶように進んでゆきます。はるかな海を遠くまで見つめているうちに、中空の駅に着きました。

大きなホテルの大きな会場で

もっとみる

「First Love」を耳にすると

「First Love」を耳にすると

コタキナバルというところへ行ったことがあります。わたしが勤めていた会社はグローバルな会社で、定期的に国をこえての会議があったのです。その時は、アジア地区の社員がそこに集まって会議をしたのでした。マレーシアのリゾート地らしく、美しい海岸に沿った建物からは、どこまでもはるかに海が見えていました。

しかし、外の陽射しがどんなにさわやかでも、わたしたちは一日中部屋

もっとみる

20年後の社内旅行

「20年後の社内旅行」

早くに亡くなった先妻は、ある時、どうしても両親を連れて海外旅行に行きたいと言い出しました。前にも書きましたが、先妻は体が弱く、人と旅行に行くということがなかなかできませんでした。それでも、両親も歳とってきたし、行ける時に行っておきたいというので、私が会社を何日か休める日に、旅行に行きました。

ハワイにしようかとも思ったのですが、先妻の体力を考えて、より近い台湾に行くこ

もっとみる

「詩のノート」

詩のノート

大田区の、京浜工業地帯、羽田から六郷川を少し上ったところに、私は住んでいました。ベークライト工場や、あらゆるものの部品工場のあいだに、貧しい民家やアパートがひしめき合っていました。下水工事も、近隣よりも後回しにされていた地域で、私とその友人は、詰襟の学生服を着て、地元の中学校へ通っていました。

50人一クラスで8組、合計400人いる学年の、ほとんどの生徒は勉強がそれほどできず、

もっとみる

「韓国の詩人のこと」

「韓国の詩人のこと」

これもずいぶん昔の話です。ぼくが20代の頃だから40年以上も前のことです。荒川洋治さんと一緒に7人ほどで韓国を旅行したことがあります。韓国の詩人と交流したり、慶州にある大学で座談会をしたりと、日々は充実しており、すべては荒川さんが予定してくれたものでした。

その旅行に行くちょっと前のことだったと思います。許万夏さんという韓国の詩人と会いました。許さんはちょうどその時に日本

もっとみる

「法衣の話」

これもずいぶん昔のことです。ぼくは37歳の時に大切な人を失いました。突然のことでもあり、お葬式は慌ただしく決められてゆきました。行ったことのない土地の斎場で、葬儀は行われることになりました。家のお寺さんはすでに法事が入っているからその日は来られないということで、斎場の方にお願いして、お坊さんを手配してもらいました。

お通夜の日から、でもぼくはひたすら泣きくれていて、ほとんど式のことは覚えていませ

もっとみる

「会社帰りのこと」

「会社帰りのこと」

これもずいぶん昔の話です。

私の家で不幸があった時に、事情があって葬式には限られた人にしか来てもらいませんでした。私の勤め先にも、参列は直属の上司だけにしてくれとお願いしました。

ですから会社の同僚や先輩は、葬式の翌週に、会社帰りに、それぞれが私の家に立ち寄り、お線香をあげてくれました。毎夜たくさんの人が、小さなマンションの一室に来てくれました。驚くほどに多くの人が来てく

もっとみる