アナログ派の愉しみ/本◎プラトン著『国家』

われわれの眼前の壁に
いま映っている影は


プラトンの『国家』で、語り手のソクラテスが開陳する「洞窟」の比喩は広く知られているものだ。わたしも高校の時分、倫理・社会の授業で(いまはなんという科目かしらん?)教師が黒板で図解してくれて、目からウロコの落ちる気分がしたのを覚えている。

 
こんな具合だ。地下の細長い洞窟のなかに、われわれは幼いころから囚人となってずっと閉じ込められている。しかも、地上への出入口を背にして、顔を奥の壁面に向けた姿勢のまま、手足を縛られているので身動きができない。われわれの背後には人形劇の舞台みたいな仕掛けがあり、そこを木石やら動物やら道具やらさまざまモノが通り過ぎていくと、外の世界からの太陽の光を浴びて前方の壁面に影が映る。そのぼんやりと移ろう影を眺めて、われわれは木石やら動物やら道具やらそのものと受け止めている。

 
要約すれば、われわれはいろいろな事物を知ったつもりでいるが、実は、それらの真実に背を向けて幻影に惑わされているに過ぎず、そのことに当のわれわれは気づいていていないというわけだ。

 
ソクラテスはさらに畳みかける。もしも、囚人のうちのひとりが縛を解かれて、うしろを振り返ったとしても、慣れない光に目がくらんで舞台上のモノを見るのが苦痛なばかりか、たとえ見て取ったところで意味はなく、いままで見なれてきた奥の壁面の影のほうを真実だと思い続けるだろう。それだけではない。もしも、そのひとりが勇気をふるって出入口へ向かい、外の世界に満ちあふれる太陽の光と出会って、そのことを洞窟の囚人仲間に教えてもだれも真に受けず、アタマがおかしくなったと思われ、強引にかれらを連れ出そうとしようものなら殺されかねないだろうという。

 
ここには、プラトンの師だったソクラテスが、アテナイの公開裁判で死刑に処せられた事実が反映していることは間違いない。したがって、『国家』という著作のなかに置かれた見取り図が、「善のイデア(実相)」を太陽の光に譬えて説明するために示されたものだったとしても、たんに認識論のカテゴリーに留まらないのは明白だろう。プラトンはソクラテスの口を借りて、「洞窟」の比喩の事態が個々人のみならず、まるごと国家のレベルで出来している現状についてこう警鐘を鳴らす。

 
「現在多くの国々を統治しているのは、影をめぐってお互いに相戦い、支配権力を求めて党派的抗争にあけくれるような人たちであり、彼らは支配権力をにぎることを、何か大へん善いこと(得になること)のように考えているのだ」(藤沢令夫訳)

 
この言葉には、プラトンやソクラテスが世を去ってざっと2500年が経過した現在にあっても、なお人類の喉元に匕首を突きつけてくる凄みが感じられよう。

 
新型コロナのパンデミックが終息して以降、国連安全保障理事会の常任理事国たるアメリカ、中国、ロシアをはじめ、世界各国で戦略的・軍事的な支出の増大が顕著になっている。それは、ひと言では表せない複雑怪奇な国際政治の力学にもとづくにせよ、「洞窟」の比喩に学ぶならこんなふうにも観察できると思う。すなわち、コロナウイルスとの地球大の闘いにおいて、人類のカネ・ヒトの資産の相当部分を医療分野や経済対策に振り向けざるをえず、この間、大いにワリを食った軍事部門のコストをあたかも取り戻そうとするかのような囚人たちが、アメリカにも中国にもロシアにも、もちろん日本にも存在して、かれらがつぎからつぎへと壁面に映し出してみせる恐怖の幻影に、われわれも躍らされているのではないか、と――。

 
では、こうした八方塞がりの「洞窟」から抜け出すためにはどうすればいいのだろう。プラトンは、囚人のひとりでもふたりでも出入口の外へ連れ出し、太陽の光に耐えて「善のイデア」を直視できるようによく教育したうえで、かれらの手によって未来の国家を建設させることを主張する。

 
「なぜなら、ただそのような国家においてのみ、真の意味での富者が支配することになろうから。真の意味での富者とはすなわち、黄金に富む者のことではなくて、幸福な人間がもたねばならぬ富――思慮あるすぐれた生――を豊かに所有する者のことだ」

 
さて、人類は果たして、それだけの勇気を持てるかどうか?
 

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