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[エッセイ]味について


  こう言っては難だが、僕は誰とも合わないところがある。
ちょっと言い過ぎかも知れないが、誰にだってそんな感覚があると思う。
それが味なのだ。

まず断っておくのだが、決して味覚が劣っているわけではない。しっかりと、味の分別はある。

  この前、家族と一緒に晩飯を食べた時に新潟の米が美味しいだの、あの店の食パンの耳は不味いから捨てた、だのと話をする。
逆に、新潟以外の米は不味いだとか、あそこのパン屋の耳はあの店が美味しいなどと言っている。

  僕はこの時に笑ってしまった。確かに新潟の米は美味しいのかもしれない。
でも、米ってもとから味があんまりしないものだ。
同様にパンの耳も特に強くない。
この差が全く分からないのである。

新潟の米を食った後、他の地域の米を食べると一気に食欲が削られると言う話を兄がすると皆、それぞれその話に乗っていた。

  味の分かるものはちゃんとある。それはハンバーグである。料理の上手い人(僕の趣向)が作ったハンバーグは中まで肉汁が現れる。それをかぶりつくのがたまらない。
  一方で料理の下手な人(僕の趣向)が作ったハンバーグは中を表向きにすると、どんどん肉がこぼれ始める。従って、肉汁が出てこない。
※従ってデミグラスソースで化かす

  でも、この問題は肉汁と中の塊具合の話になってくる。だから同じ材料を使っても上手い人が作れば、美味しくなる。

  じゃあ米は一体どうすれば僕に証明してくれるのか。単純に米の育った気候だと説明されればそれまでだ。
でも、僕には同じ味なのだ。それが悔しい。どこが柔らかいとか、どこが甘いとか言ってくれ。上にかけたものがご飯を奪ってしまってもっと分からなくなる。

あー、駄目だ。同じ味、同じ味。

  そう言えば、これだけは違うと思った味があった。それはいつかおばあちゃんの田んぼで作られた米だ。
なぜ美味しく感じたのかと言うと
僕も一緒に収穫したからだ。
一味に「経験」とでも言うのかもしれない。「経験」が美味しくさせてくれた。

  じゃあ僕たちの家族は新潟の米が美味しいと感じるような「経験」を積んでいるのだろうか。
それは恐らく前世の記憶かもしれない。
多くの人は農民である。
じゃあ、僕は…。
と、妄想が膨らみに膨らむ。
妄想が湧き出てる時が人は一番楽しい時間じゃなかろうか。

  それにしても今日は良い天気だ。
田んぼの水稲も揺れに揺れて「経験」を積んでいるのかもしれない。


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