底なしの向上心は自己否定の賜物だった
完璧になったら、愛されると思った。
劣ってるところが無くなれば、愛されると思った。
私が私だからいけないんだと、私がもっと人から評価される素晴らしい人間になればいいんだと。
だから沢山努力した、"私"の欲望や感情を抑圧して、世間的に評価されている人たちの真似をした。愛されている人たちの真似をした。
向上心が、私の命の手網だった。手が血だらけになろうとも、その手綱を手放すことは出来なかった。
完璧になったら愛されると思えば、現実を見なくて済むから。
愛されてない現実を。大切にされていない現実を。
いつか愛される未来に期待して生きれるから。私の生きる希望となったから。
「私がもっといい子になったら、きっと優しくしてくれるんだよね、もっとお話聞いてくれるんだよね、」
だから頑張った先に"愛される"現実が待っていないことを知った時、深い絶望に突き落とされた。
今までずっと、この現実を見ないように頑張っていたのだと初めて知った。だって本気で生きる希望を見失ってしまったから、その一瞬で。
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私のありのままを晒すことは、私にとって苦痛だった。致死量の罪悪感に襲われた。いい子じゃない本当の私を、なんの対価も無しに見せるのは大罪に感じた。
せめて笑いを、愛嬌を、お菓子を、あなたの相談を、そうやって私なりの対価を払うことで、その罪悪感を誤魔化した。聞いて貰った最後には毎回「こんな話を聞かせてごめん」と付けた。
愛されるために後天的に身につけたものたちは、見事私をありのままからかけ離してくれた。自分が自分じゃないと思えるほどにリアルだった。
でも本当は、ありのままを愛して欲しかった。
本心の叫びと頑張り続けて見えてきた事実からだった。
きっと頑張っても愛されないことを、人は綺麗なものを愛すわけではないことを、歪な物に独自の愛着を示す生き物なのだということを、私は気づいてしまった。
それに気づくのが遅かった。その時にはもう、ありのままの私がどこにいるのか分からなくなってしまった。戻れなくなってしまっていた。
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そういえば、ずっと自己否定しているなと思った。
ありのままが嫌だった頃も、ありのままに戻りたくなった頃も、ずっと今の自分の否定だった。
ありのままの否定と偽りの自分の否定。
ありのままに戻ろうとする努力は、苦しかった。今の自分を"嘘つきめ"と否定するところから始めねばならない。
何をしても無限地獄だなと、思った。終わりが見えなかった。
あれもしかして、もう諦めるしかないのかも。
私ではない"何者"かになるのを、諦める勇気を持つ時なのかもしれないと悟った自分がいた。
いや、
これまで何者になりたかった自分も、上手くなれなかった自分も、偽り過ぎてしまった自分も、ありのままに戻りたくなった自分も、全部紛れもなく"私"じゃないか?
私は最初から私で、それ以上でもそれ以下でもなかった。
今の私も、"私"なのだと。
とりあえずこれでいっか、このままの私で。
そう思うことで無限地獄から、一瞬だけ救われた自分が確かにいた。
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愛されること、人から評価されることに自分の価値を見出すことは止められなかった。
結局どんな私になっても、どんな状況になっても、どんな言葉をかけられても、私自身は何も変わらなかった。
きっといつまでもそうなんだと思う、自分の信念は簡単には変わらない、いい物も悪いものも。
ならば諦めることが、自分を救う1番の方法なのかもしれない。それでもいいのかも、と思えること。
変わらない、変われない、それはかつての私にとっては絶望の一言だったが、今の私にとっては救いの一言になった。
いいよ、みんなきっとそのままで。
綺麗事かもしれない、だけどいいよみんなそのまま汚くて、いいんだよ。
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