読み手は誰か?---「他者」に響く文章 vs 「自分」に響く文章

文章を書くときは「読み手を意識しろ。読み手をより具体的にイメージし、その誰か一人に響くように書け」というのが文章を書く技術のうちの定番の一つと言われる。それはごもっとも。一人に突き刺されば、伝染していく。

企業もそうだ。
一人のユーザーの年齢、性格、家族構成、趣味嗜好、職業などを綿密にイメージする(ペルソナ、という。カスタマーエクスペリエンスの向上ではこの手法を使う)。

まずは、その具体的一人を感動レベルまで満足させる。
その人は、その商品(文章、ブログでもいい)を他者にオススメしてくれる。
売り上げはその後についてくる。という考えに基づいている。

値段もあまり関係ない。
薄利多売とは反対側の経営戦略だ。
(ここまでは、多くの本が出版されているので、一般論)

だから、それを考えていない文章はダメかと言うと、そうとも言い切れない。

一つ、この法則とは違う表現方法を一部抜粋しようと思う。(文章ではなく、歌詞なのだが)

八方美人というブスから抜け出し
いつか本当に美しい人に
敵は自分で毎日が闘い
計算も売り込みも大切なのだが
全く向かなくて稼げやしない
競い合うなんてもっての外
自分以外に敵を増やすなんて
八方色した醜い私を
笑われながら拾ってくれた
周りは言っただろう
「万人受けじゃない」それに
「扱いにくいぜ?」知恵、見栄ありアラサー
この案件 危険だらけ
首かしげる人だらけ
これは痛恨のミスになるのか
こいつの人生を変える事になる でも
見てきた世界も変わるかもしれない
同じ頂上を見ている
人間くさいチームが出来た
だからだろう マスクや
うがいをよくするようになった
寝る時はタートルネック
加湿なんて気にした事なかった
風邪薬買う時だって 笑ってる仲間が浮かぶ
「YAMABIKO」を超えなくちゃ
一瞬でも考えた自分
青ざめて嫌気がさした
越えるも何もないだろう
結果を気にして書いたら 
私の曲はすっからかんだ
人を気にして書いたら
このデビューはおじゃんだろう
一緒にやっていくんだ
世の中は忙しくて
一緒にやっていくんだ
皆自分の事で必死だ
一緒にやっていくんだ
そこへ飛び込んでいくんだ
一緒にやっていくんだ
靴紐しっかりと結んで
「仕事は三年からだぞ」
会社の上司によく言われた
そうまだ何も見えてない
この世界の一欠片も
そんな私だけれど ただ一つ言える事は
綺麗な星空を見ると
笑ってる仲間が浮かぶ
うーわNakamuraEmi
思ったより大した事ねーな
飲み込んで前に進め
ぶれんじゃねーぞぶれんじゃねーぞ

この歌と詞は、読み手を意識して書かれていない。それでも、心を打つ。

なぜだろうと考えた時に、彼女は自らをペルソナ化したのだと気がつく。

自分自身をペルソナとして、自分へ向けて歌っている。

それこそ、年齢、趣味嗜好、性格など具体的にイメージできる。いや、イメージところではない、自分なのだから。その時の自分というペルソナに向けて、響く詩を書く。

この詩は、自分が「書き手」であり、そして同時に「読み手」である。

初めから、「ウケ」なんて狙っていないのだ。

文章を、他者に向けて書くか、自分に向けて書くか、の二極論で語るのは十分ではない。

しかし、人が(書き手、表現者が)、深く、もっと深く、自分の核を探し、さらけ出す時に、思いもしなかった共感を呼ぶこともある。

自分と向き合う、という行為は時に苦しい。痛い。

それでも、過去の自分と未来の自分の間にいる、現在の自分を見つめてみよう。

汚なくても、泥臭くてもいい。

そこから、人生が開けるかもしれない。

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