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ショーペンハウエルの説教

ショーペンハウエルの『著作と文体』は、
文章における様々なことが綴られているエッセイである。

ショーペンハウエルはショーペンハウアーともいうし、ショウペンハウエルともいう。ドイツの哲学者である。1788年、18世紀に生まれた。

岩波文庫から、ショーペンハウエルの『読書について』が発売されていて、
その中に、『著作と文体』がある。


基本的には、お説教である。痛切なお説教が延々と続く。
19世紀当時の文章家たち、それは20世紀、21世紀の人々にも通じる、その愚劣さを延々と説教しているのである……。
私も大変耳が痛いことをクドクド書いている。が、間違ったことを書いているわけではなく、非常に勉強になる。

ショーペンハウエルは、基本的には自分自身の為に思索を行う者の文章こそが真にインテリジェンスで価値があるのだと言う。他者の為に思索するものは、それに劣るのだと。
著書は著者の思想の複製品にほかならない。と、ショーペンハウエルは書いている。
そして、その著者が対象に向けてどのように思索を巡らしたのか、その主観が優れているものこそが特筆すべき著書になる、ということなのである。
要は、文章とは哲学でもあり、他者の慰安の為に書かれた文章は真に卓越したものではない、ということだろうか。
そういう、真の思索者である著者が送り出した著書は、自らの精神の複製品を世に送ることと相違ない、と書いている。
優れた著作は、優れた者の精神の複製品なのである。

然し、大抵の教養がない(私が言っているのではなく、ショーペンハウエルが言っている)人は、素材やその著書の形式にではなく、その作品に接しておきながら、作品が生まれた背景や、著者の私的環境、作品よりも著者について語り、例えばゲーテの『ファウスト』ならば、『ファウスト』そのものではなく、ファウスト伝説の方に熱を入れて研究しちゃう……という痛烈な批判をしている。
それ、私やん……。調べるの、面白いんだよ…。

まぁ、たしかに、『金閣寺』そのものを語るのではなく、三島由紀夫を語り、『金閣寺』の周囲の伝説を語り研究する、という傾向は確かにあるのである…。それよりも、そこに書かれている思想に相対するだけでいいのである、ということだろう。まぁ、そんなこと言ったら研究者を否定することになるからなーとは思うけれども、ショーペンハウエルにとっては、研究者、編集者、二次創作者は全て二流だという考えなのだろう。
特に、人目を引くため、売文の為の思想は、その最たるものなのだろう。

以下は、ショーペンハウエルのお言葉。

少数の思想を伝達するために多量の言葉を使用するのは、一般に、凡庸の印と見て間違いない。これに対して、頭脳の卓抜さを示す印は、多量の思想を少量の言葉に収めることである。
〜中略〜
ゲーテの素朴な詩がシラーの技巧を凝らした詩よりも比較にならないほどすぐれているのは、まさにこのためである。いくたの民謡が強い感動を与えるのもこのためである。

簡潔さを誤るとは、有用なものを、文法的にあるいは論理的に不可欠なものまでを捨て去ることである。現在ドイツでもっとも下等な著述屋たちが、この誤った手法に夢中で、狂気にとりつかれたようであり、この手法を用いる彼らの愚かさは信じられないほどである。
(私ではない、ショーペンハウエルが言っているのだ…)

小難しく、装飾をゴテゴテにして書くな、シンプルこそ美しいと言う。
つまり、三島由紀夫は失格である。

とにかく、誹謗中傷が多い本だが、真理は書かれていると思う。200年近く前から、最近の文章は、最近の文壇は…って感じなのである。
よくいう、エジプトの遺跡に象形文字で、「近頃の若いものは……」と書かれているという話があるが、昔の雑誌とか読んでいても、最近の文壇は…、とか、最近の若い書き手は…とか、今と変わらないディスりが横溢している
よく、最近の本はつまらなくなった、とか、昔のテレビはよかった、今はつまらない、とかいうけれども、つまらなくなったのは自分である。
昔から、つまらない本だの映画だの、文学だの漫画だのテレビだの山程あって、その中から濾過されて生き残った傑作だけをさらに自身の過去のナルシシズムと重ねて美化しているに過ぎない。
今のほうが治安もいいし、病気も治るようになったし、どう考えても良い。無論、現代は現代で、忌むべき問題も山積しているが。

結局、人間というのは、歳を取ることでつまらなくなる生きものであって、それは誰にでも訪れる。それに抗おうと努力されている方も大勢いるし、そういう人が幸福ではないか。

まぁ、話が脱線してしまったけれども、文章において非常に勉強になることがつらつらと書かれている。大沢在昌の、『売れる作家の全技術』の対極にある本と言っても良いだろう。

この本で、大沢在昌は良いことを言っている。それは、新人賞も数年頑張って無理ならば、もう諦める方が良い、ということである。
引導を渡す、というのも先達には大事である。日々の生活、人生の幸福が大事なのである。それを楽しみ、ショーペンハウエル風に、思索したものを書けばいいのである。焦っても結果は変わらない。
小説家になったとしても、今後は売上を、賞を、他人の評価を気にするようになるし、終わりはない。
それでもなりたい人は頑張ってください。

100年後、今いる作家のほとんどは多分読まれてもいないだろうが、そのように書いた貴方の思想は、ひょっとすると黄金の輝きを未だ放ち続けているのかもしれない。

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