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積読抄

本が好きな人間なら誰しもが陥るのが積読という現象である。

無論、私もその例に漏れることはなく、大量に、本当に大量に積読がある。買って、紙とインクの匂いを嗅いで、それから本棚の肥やし。
まぁ、然し、けれども、なんというか、本、というものは全てを読む必要性や義務などないから、それでもいいのだ。
寧ろ、御弁当箱の米粒一つまで余す所なく食す、そのようなことは本では必要もない。全ての文字を拾うなど土台不可能である(そうか?)。

そもそも、本、というのは、作者の、執筆者の、書き手のその思想などを体系立ててて書かれており、微細なところまで丁寧に考え抜かれて構築されているが、読者は識ったことではない。

つまみ食い、つまみ読み、それでいいのである。

僅か一行の為に本にタイ米を払う米騒動、ではなく、大枚を叩くことなど、
幾らでもある。
どこかで目にして、或いは偶々書店で本を紐解いたときに目にした眷恋けんれんの言葉一つを読み上げるために、それを手元に置いておくために本を買っても良いはずだ。その、美しき言葉の連なりを読んで、思わず本を閉じて空を見上げる。ほうっとため息をつく。
川端康成が日記に書いていたように、「ああ、ドストエフスキーの『罪と罰』が堪らない」、というような、おののきき打ち震えるような喜び。康成はこの時、小説家をきよい仕事だと言っているが、彼の書く作品には清らかさはあってもひじりは一つもない。

そもそも、雑誌、などは、全てのページを読むなどと言うことは、余程のことがない限りはあり得ないだろう。

いや、雑誌と本は違うでしょう、とそう言われたら、まぁ、そらそーだ。

さて、前置きが長くなった。私は本を愛している。そう、わたしはこんなにもおまえを愛している…… だから、時々、おまえを メチャクチャにしてやりたくなるのだよ……!!、と、まぁ、『クロノ・クロス』のフェイトばりに(運命フェイトがこういうことを言うのが皮肉が効いていていいね)
思いながら本を手にしている。

世の中には数多藝術が溢れているが、その中でも本は鑑賞者に能動性を求めるものだ。
文章藝術を相手取るにはそれ相応の知識がいる。
絵画、は、ひと目見て美醜と巧拙とがわかるが、無論、そこには美術における西洋東洋世界中の歴史の蓄積があって、複数のレイヤーが敷かれた多層構造、これには生半可な知識では太刀打ちできやしないけれども、それを手助けするはやはり本。けれどもけれども、大量の文字で作られた本、というものも、ぬくい湯もあれば、芯から凍える冷水もあって、バミューダトライアングルを作り出す文字の汎濫に侵されたその紙に這々ほうほうていでなんとかしがみついても振り落とされることはあるだろう。
最期迄着いていきますぞと、そう決意したところとて、これら魔海においては貴殿ら貴女らの身体など瞬時に難破船と化してセイレーンのき声に誘われるままに連れ去らるのが関の山だ。

それでは映画はどうだろうか。映画。ムービー。

映画は簡便な藝術だと誰かが言うが、最早一〇〇年、その一世紀の重みに置いて、サイレント時代を蹂躙しながらトーキーの行進が始まることになり、その複雑怪奇さはついには肉体を持って貴方方あなたがたに迫るようになった。
サイレント時代の名匠かつ名将シュトロハイムの絢爛豪華かつ甘美なモノクロームの時間は自己言及を投影するに余蘊がなく、陶酔するばかりの幼年期にも終わりを告げて、然し、けれども、その幼年期すらも、大人びた白亜の神殿に住む狂王女のソドムの市においては、何処か自らが識る汎ゆるデカダンスを遥かに爛熟し腐敗した藝術の本懐が匂い立っていた。
その香りを、貴方方あなたがたの幾人が気づき得たのだろうか。映画は人類を跋扈するかのように増殖を続けて、それはある種コレラ菌のように
鑑賞者の心を破壊する。映画に憑かれた貴方方あなたがたは、ありと汎ゆる刺激をハード面でもソフト面でも追い求め始める。
娼婦か男娼を買うことと些かの違いもないほどに、刺激の世界に耽溺し、上っ面の美酒を赤い靴に注いで飲み続ける。その靴がエトワールか或いはシンデレラのものだと信じて止まないがその実、今朝方ゴミ捨て場から拾ってきたもので隣家を覗くような穴も空いている。
映画も、本も、互いが互いを蹂躙し合うつがいでしかないのに、何れかを聖典の如く崇めたてまつる人々は、本にせよ、映画にせよ、マイケル・ナイマンの曲の美しいタイトルの如く数に溺れて、等しく美しいもの、キレイなものだけを拾うだけで、神聖なる一匙を見過ごしてしまう。その砂糖を入れて飲んだコーヒーの飲み心地も識らず!
所詮は本も、映画も、全ては資本家のゲームに過ぎないのは現代の病の一つだが、なんてことはない、現代だけではない、これらは人間の宿痾しゅくあであって、古代神話の時代からの習わしである。
本を幾ら読もうとも、映画を幾ら観ようとも、数に溺れるようでは意味がない。汎ゆる映画、本は積読されて然るべきであり、積読の正体とは自尊心と見栄と出歯亀根性の混成のキメラであり、それはいにしえからの人間の友人であり、アニマにおけるアニムスと相違なく、何れにせよ、知への渇望と同義である。
積読とは知への渇望であり同時に性欲と些かの違いもない衝動的なものだ。愛していると信じて抱いた相手が朝方見ると魔法が解けている。その残滓でしかないけれども、たった一縷の聖なるものへの繋がりを信じた、誤謬ではなく本当に天竺へと繋がるシルクロードであることを確認するための、そのような作業なのだ。

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