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多様性と居場所の哲学④

2 『正欲』の脱構築

(2) 大きなゴールというマジョリティの暴力性 ―フーコーの「狂気」より―

その“大きなゴール”というものを端的に表現すると、「明日死ななないこと」です。

(『正欲』p.3)

 目に入ってくる情報は、すべてそのゴールにたどり着くための足場だと、主人公の佐々木佳道は言う。そしてその情報は、マジョリティのためのものだ。佳道は、異常性癖者であり、性的マイノリティである。多様性として定義されたものにも含まれない、世界の外側を生きている。自分の存在が肯定されていない佳道にとって、生きることは、必ずしも前提となっていない。
フーコーは、このような個人にも生きるように促す統治を「生政治」と呼んだ。マジョリティが権力を生み、生政治を促している。

ワクチン政策は生政治であって、人々が自分の人生をどう意味づけるかにかかわらず、一方的にただ生き物としてだけ扱って、死なないようにするという権力行使です。ここで「死なないようにする」というのは、働いて税金を納めて国家という巨大なモンスターを生き延びさせていくための歯車にするという意味ですから、そういう統治に巻き込まれたくない=自由でいたいという抵抗の気持ちが──無意識的に──そこにはあるのです。

『現代思想入門』p.79-80

 人々の人生をどう意味づけるかにかかわらず、一方的にただ生き物とだけ扱って、死なないようにする権力は行使される。ただし、その権力の担い手は、権力者たる、確固たるものが存在するわけではない。権力には、かならずその権力を押し上げるものが存在する。マジョリティである。

これが正常でこれが異常という分割線は、どういう文脈で見るかによって違い、それはつねにつくられたものです。その背後には政治的な事情があります。というのは、「正常なもの」というのは基本的には多数派、マジョリティのことであって、社会で中心的な位置を占めているものです。それに対して、厄介なもの、邪魔なものが「異常」だと取りまとめられるのです。その存在が取り扱いにくいと、社会的にマイナスのラベリングがされて、差別される。逆に、寛大な処遇として、それを社会に「包摂」する場合でも、マジョリティの価値観に寄せてそうすることになります。

『現代思想入門』p.71

 権力は、その統治のために、狂気と正気を分けた。マジョリティによる世界のクリーン化である。そのために、狂気は狂気として扱われ、治療の対象となった(それ以前の世界では、狂気と正気は明確に区別されず、もっとごちゃまぜになっていた)。多様性という言葉は、差異を強調した言葉だ。私たちの間に線を引き、分類している。みんなちがっていいというその押しつけがましい考えこそ、マジョリティの視点である(そもそも違いは許容されなければならないのか)。

多様性、という言葉が生んだものの一つに、おめでたさ、があると感じています。
自分と違う存在を認めよう。他人と違う自分でも胸を張ろう。自分らしさに対して、堂々といよう。生まれ持ったものでジャッジされるなんておかしい。
(中略)これらは結局、マイノリティの中のマジョリティにしか当てはまらない言葉であり、話者が想像しうる、“自分と違う”にしか向けられていない言葉です。

『正欲』p.6

 結局、多様性のある世界もまた、世界の外側を作ってしまった。佳道や夏月など、狂気として残された人々はそのままでは生きることが難しい。ならばむしろ、線を引いて、世界の外側で生きたいと願う。しかし、マジョリティは放っておいてくれない。狂気を正気に治療するように、マジョリティはマイノリティに無自覚な暴力性を発揮する。問答無用に、生きることを強いるのだ。

社会は日々変わりゆく。価値観、考え方、常識、昨日はそうであったものが、今日そうではなくなる。そんな、物差しの目盛りがいつだって揺らぎ得る時代だからこそ、法の下の平等だけは、守らなれなければならない。

『正欲』p.15

 啓喜は、検察という組織に所属し、社会正義の実現の一翼を担う。そこでは、法の下に、犯罪者を裁かなければならない。

啓喜はこれまでの検事人生を経て、人間にはそこに収まるべき通常ルートのようなものがあることを学んだ。家族に愛されて育ち、友人や恋人に恵まれ、学校を卒業し社会人となり自分の生活基盤を築くというルートの内側に生れ落ちることができればそれだけで、人は犯罪に手を染める確率をぐんと減らせる。ただ、どんな環境に生まれるかは、本人の与り知らぬところで決められることであり、だからこそ、このルートから自ら外れようとする者に出会うと、啓喜は激しい苛立ちをいだくのだ。

『正欲』p22

 しかし、通常ルートとは一体何だろう。多くの場合、ルートから外れることは不可抗力だ。一方、ルートから外れることが犯罪との距離を縮めるのであれば、権力は、ルートから外れる生き方を阻止しなければならない。

―警察施設に侵入し、水を出しっぱなしにして蛇口を盗んだとして、岡山県警○×署は22日、同県〇×市の西部日本新聞配達員、藤原悟容疑者(45)を窃盗と建造物侵入容疑で逮捕した。(中略)藤原容疑者は「水を出しっぱなしにするのがうれしかった」と供述している。

『正欲』p.87

 啓喜にとって、このような異常性癖者は、権力にとって処罰か矯正の対象でしかない。
 一方で、啓喜の同僚である越川は、この事件についてこのように語る。

「世の中には、小児性愛どころじゃない異常性癖の人って沢山いるみたいなんです。たとえば風船を割ることに興奮する人とか、そういう感じの。今回の被疑者ももしかしたら、蛇口を盗むことが目的じゃないのかもしれません」

『正欲』p.88

 この手の発言は、一見狂気に寄り添ったものだ。だが、事は簡単ではない。啓喜の後輩の越川の発言もまた、異常性癖者=マイノリティ=狂気と、マジョリティ=正気に、明確に線を引くものだ。やはり正気が基準であることに変わりはない。啓喜は言う。

「たとえそういう理由だったとしても、どの事件の被疑者も公共物を窃盗したという事実は変わらない。俺たちの仕事は被疑事実に当てはまる罪名を正しく見極めることだ。(以下略)」

『正欲』p.89

 狂気という対象だからこそ寄り添う姿勢の越川、狂気は裁くべきだという啓喜、どちらも結局のところ、正気―狂気という二項対立から脱することが出来ていない。しかし、このような視点から完全に離れてしまうことは、もはや私たちの社会では難しい。罪は罰するものだ。どこかで切断しなければならない。
 しかし、もし、そのような切断ではないあり方や居方ができる場所があるとしたら、それは家族(的)な場所と言えるかもしれない。夏月は言う。

「私たちも現実を生きているんですけどね。」
(中略)
「あなたの言う現実で、誰に説明したってわかってもらえない者同士、どうにかつながり合って生きてるんです」
(中略)
「そんな生活を、誰に説明したってわかるように作られた法律に搦め捕られるんです」

『正欲』p.376,377

 私たちの現実とあなたの言う現実とは違うもののようだ。そしてそのような多様な現実を一つの現実=社会=世界として理解しようとすること自体に無理がある。それぞれが生きる現実は確かに存在するのだ。

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