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ガールフレンドの必要性についての一考察

まず、弁明をしなければならない。いや、させてください。

僕は決して「モテない」部類の人間ではないということだ。かといって「モテる」部類の人間ではない。つまり、モテない部類の人間から見ればモテる人間だし、モテる部類の人間から見ればそれはモテない人間である。左翼から見たら右翼、右翼から見たら左翼。そんなイデオロギーの狭間で生きる政治家に近い。

ただ、かく言う僕はガールフレンド、所謂「彼女」という人間がここ数年できていない状況にある。いや、「つくらないだけ」であると胸を張りたいのだがいかんせん理由がなければただのイタイ奴だ。そこで、その理由についてつらつらと言い訳がましく述べていこうというのが今回。こんなことを書けばおそらくもっと女性との距離が遠ざかっていくことは百も承知。しかし、僕は決して「モテない」人間ではない(モテる訳ではないにしろ)ことを過信して書き進める。

「ガールフレンド」という記号性

なぜ独りで生きる世の人間が「彼女」や「ガールフレンド」に対して執拗なまでに固執し、「リア充」と呼ばれるカップルたちを妬み、独り生きることを悲観的に捉えてしまうのか。この問題には普遍的側面があるのかもしれないが、やはり近年の傾向を見るにSNSでリア充たちが人生を謳歌している姿を否応なしに目にしてしまうことが関係するのではないだろうか。

実際に、関西学院大学でSNSにおける「どのような投稿内容に対して、人々が嫉妬を抱きやすいか」といった調査が2020年に行われた。結果として、

・聴衆は投稿者が一人で写っている写真よりも、誰かと写っている写真に嫉妬しやすいこと
・友人と恋人を比べると、ただの友人よりも恋人と写っている写真に聴衆が嫉妬しやすいこと
SNSにおける投稿内容が引き起こす嫉妬に関する基礎調査(関西学院大学商学部 大石・土方)

が分かっている。つまり、何気なく見ているSNSの投稿で他人のリア充生活が垣間見えてしまうのは甚だ嫉妬心をもたらすということだ。逆に言えば、人間はマウントを取りたい生き物であるため、彼らリア充は、リア充生活を見せびらかすことに快感を覚えているのかもしれない。知らんけど。

そう考えれば、彼らにとって「ガールフレンド」はいち「記号」に過ぎない。ユニクロの無地Tシャツを着ればいいのに、人々はブランドロゴが描かれたTシャツを好んで着るように、「記号性」にこだわり社会的な地位を確立しようとしているのではないだろうか。ま、知らんけど。

したがって、彼らにとってガールフレンドは「記号性」であり、言い換えるならガールフレンドは「ファッション」なのである。
僕は着飾らずに無地のTシャツを着たい

結局「独り」になりたくないだけ

僕の友人たちは大学四年間で続々とガールフレンドをつくっていき、取り残されるようにして数人の非リア男友達グループが出来上がった。昨年のクリスマスはその男グループで聖夜に暴飲暴食をして楽しんだし、人肌恋しくなる季節において不便に感じることはない。だが、今年の冬、彼らにガールフレンドができれば話はまた別である。

取り残されても何人もの同士がいれば全く怖くないクリスマス。独りになってしまえばそこには悲壮感や孤独感といったネガティブ因子しか残らない。その恐怖感から「恋人がほしい」と強く思い込んでいるのかもしれない。自分という人間が世界最後の一人にならないために。

もしそうであるならば、「恋人がほしい」という意思は極めて自己中心的であり不純な動機なのではないか。

まあ、ミスチルの「シーソーゲーム 〜勇敢な恋の歌〜」の歌詞に

恋なんていわばエゴとエゴのシーソーゲーム
Mr.Children

とあるから、「恋」は自己中心的に行うものなのかもしれない。
加えて、「恋」は論理でいくら考えても仕方のないものなのかもしれない。

まあ、そんな「恋」より僕は某プロ野球球団の「鯉」に夢中です。カープ女子から連絡来い!

これで終わるのもなんか味気ないので、最後に村上春樹の短編小説『ハナレイ・ベイ』に出てくる「女の子にモテる方法三選」を引用しますね。

1.相手の話を黙って聞いてやること

2.着ている洋服を褒めること

3.できるだけおいしいものを食べさせること
村上春樹

僕はこれをLINEのステータスメッセージ、所謂一言コメントに書き連ね、忘れないようにしています。

僕のLINEのステータスメッセージ

これで彼女ができなかったら村上春樹のせいである。やれやれって感じだ。実にやれやれである。

まあ多分だけど、こういうところなんでしょうね。知らんけど。



「押すなよ!理論」に則って、ここでは「サポートするな!」と記述します。履き違えないでくださいね!!!!