見出し画像

〈式〉嫌いと変わり者

3月13日の“マスク解禁”に先がけて、卒業式での“マスク原則不要”が発表されました。

人によりさまざまな意見や賛否はあるにせよ、もし私が式に出なければならない立場なら、心底ほっとしたと思います。
顔半分を覆う布をつけたうえ、長時間の式典に耐えなければならないなんて。

私は呼吸器の疾患持ちのため、マスクの着用は短時間でも苦痛ですし、それに輪をかけ、何らかの式に出ることが呼吸の制限以上に苦しいのです。

〈式〉と名のつくものが苦手なのは子どもの頃からで、どうしても避けられない〈入学式〉〈卒業式〉などは、その前後数日間にわたり心身の具合が悪くなるほどでした。


もちろん学生でなくても多種多様な〈式〉に出る機会はありますが、それらもできる限り避けてきました。

たとえば成人式には出席していませんし、過去に一度、公の場で表彰を受ける機会があったものの、そちらも欠席しました。
亡くなった方へのお悔やみは葬儀でなくお通夜やお墓参りで失礼しますし、これは人から唖然とされるのですが、人生でただの一度も、誰かの結婚式に出たことがありません。
仲の良い従兄弟、最も親しい友人、お世話になっている仕事仲間。それらの人も含め、一人の例外もなく、です。

私がどういう人間かを知っているため、本人たちからは“残念だけれど仕方がない”とすんなり納得してもらえますが、周囲とは高確率でもめごとが発生します。
そんな折は不義理、自分勝手、意味不明なわがまま、と散々言われながらも、私の意思は変わらず。披露宴のテーブルには着かずに今に至っています。


自分でもなぜこうなのかがわかりませんし、何らかの症例名がつくのでは、とひそかに疑い続けてきたところ、昨年そんな疑問を確かめるチャンスが訪れました。
ある精神科医と親しく話す機会があり、その人がちょうどつい最近、変わった結婚式に出た、と写真を見せてくれたので、ちらりと自分の話をしてみたのです。

「こういうの、写真だとおめでとう、いいお式ですね、って思うけど、実際出るとなると、どうにも耐えられないんですよ。変ですよね」

するとその精神科医の方の意外なお返事が。

「全然。僕も嫌で嫌で仕方ないし、帰りたすぎてずっと悶絶してました。結婚式なんかもう何十年も出てませんけど、今回ばかりは、どうにも逃れようがなく」
「そうなんですか。辛かったですね、それは」
「なんなんでしょうね、あの、そこにいるだけで生命力の削られる感じ」
「わかります。だから私も絶対出席しない、というか出来ないんです」
「珍しいですね、女性でそういう方って。初めてお会いしたかもしれません」
「ですよね。あの、これってなにか、心理学で説明がつくんですか?」

私はかなり真剣に聞いたのですが、その方の答えは気の抜けたものでした。

「さあ?僕も知りたいな。わからないんですよ、まったく」

やっと説明がつくかと思ったのに。という私のつぶやきがいかにも残念そうだったのか、お役に立てなくて。お互いに変わり者なんでしょうね、と笑われてしまいました。

そうして原因は不明ながらも、とにかく私の式典嫌いは“変わり者”程度ですむ話だとわかったので、それも良しとすべきかもしれません。


他に思い浮かぶ、さらなる“変わり者”といえば、ウディ・アレンでしょうか。
半世紀に及ぶキャリアのなかで数多の賞を受け、『アニー・ホール』では作品賞・監督賞・脚本賞・主演女優賞と主要な賞をほぼ総なめにしながらも、アカデミー賞授賞式を平然と欠席しました。
かわりに下町のジャズバーで、数人の観客相手にクラリネットを吹いていたというから傑作です。

もうひとり“変わり者”をあげるなら、間違いなく作家の内田百閒でしょう。
百閒が日本芸術院会員に内定したとき、こんな理由でもって固辞したことは有名です。

なぜと云えば、いやだから。
なぜいやか、と云えば気が進まないから。
なぜ気が進まないかと云えば、いやだから

ただ、いやだからいやだ。
偏屈とも取られかねない百閒の心持ちが、私にはまるで自分のことのようによくわかる気がします。

天下の芸術家たちと自分を並べるとは何という思い上がりかと言われるかもしれませんが、私もいやだからいやだ、と、これまでと変わらず、時に不義理をしつつ“変わり者”でいこうと思います。

アインシュタインだって、こう述べています。

世の中には二種類の人間しかいない。
すこし変わった人と、かなり変わった人

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?