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千慶烏子『クレール』解説

思えば、あの日はじめてサーカスの馬屋で見た中国男がわたしに微笑みかけることをせず、罌粟の咲き乱れる裏庭の片すみで、弦が一本しかない中国のセロを弾いてわたしたち家族を感嘆させることもなく、柔らかいなめし革のような肌を輝かせてわたしの手にうやうやしく接吻することもなく、そのまま馬に乗ってこの小さな村から出て行ってくれたのなら、どれほどよかったことだろうか──。

Claireとは明晰にして澄明、清澄にして純粋。光輝くような美貌の女クレールが繰り広げる愛の妄執はかくも清冽であり、またかくも甘美である。千慶烏子のプネウマティクとバロッキズモは、われわれの記憶の古層にたたまれた愛の神話を、かくも現代的な表象空間のもとでかくもモダンに上演する。アレゴリーとは他者性(アロス)の言説。千慶烏子が舞台の上に女たちを呼び寄せて語らせる甘美な愛の言説とは、実にこのアロスの言説、他者性の言説に他ならない。神の女性的な部分。狂気のもうひとつの側面。全体的で命令的な連続する快感。実に愛の妄執とは、ジャック・ラカンの言うとおり「女として現われる」のである。──急迫するファントーム。明晰な愛のオブセッション。目眩めくテクストの快楽、千慶烏子の長編詩篇『クレール』。

◇ 購読案内

本書は『Claire』の表題で叢書『Callas Cenquei Femmes』の第三巻として2006年P.P.Content Corp.から出版された。千慶烏子のシリーズ作品『Femmes』の概要に関しては、『アデル』の購読案内で紹介しているので、ご覧いただきたい。

これまで『アデル』『デルタ』の購読案内をご覧いただいた読者の皆さんならば、千慶烏子のこのシリーズ作品に共通する特徴をすでにご理解いただいているかもしれない。重複することになるが、簡単に解説しておきたい。

作品はいずれも女主人公の語る「わたし」という一人称の話法で構成されており、彼女の目を通して作品世界は描かれる。女主人公の語る物語内容(イストワル)だけでなく、彼女の語る物語行為(ナラシオン)そのものがテクストの舞台に乗せられており、彼女は物語の語り手であると同時に彼女の語る物語の主人公であり、テクストの舞台でこれを上演する演者であり、彼女の物語るすべてが収束する表象の消失点でもある。

作品の核心部には常に謎があり、端的に言うならば、女主人公の存在そのものが謎であり、また謎の仕掛けであり、彼女の物語行為は、彼女の真率な自己表明であるにもかかわらず、謎の種明かしでもあるのである。作品はこの謎を追いかけるようなかたちで展開し、いくつかの契機を経てその謎の正体が明らかにされるやいなや、夢とも現ともつかないある夢幻的な空間(ファントームの空間)が目の前に開かれるのである。

ただし、その謎はミステリー小説に見られるようなトリックや仕組まれた謎ではなく、あるいはヒッチコックの言う内実を欠いたマクガフィンでもなく、もう少し哲学的な問いかけ、すなわちテクストの舞台で「わたし」を語っているこの「わたし」は誰かという謎である。千慶烏子の作品が「わが国の自由詩の作品史にかつて現れたことがない」と指摘されるほど異質であるのは、この「わたし」の流動性にあると言っても過言ではないだろう。千慶烏子の「わたし」は作者のもとに固定されておらず、作者と話者の間を、また作者自身の固有性と何らかの代弁者という性格の間を、あるいは剰余と欠落の間を、または彼岸と此岸の間を、あるいは実体と虚像の間を流動するのである。この流動する「わたし」に根差した方法論に千慶烏子のオリジナリティと決定的な新しさがある。

「あなたは妹の黒い靴下をはき、わたしはお兄さまの革のベルトをしめて、おたがいの美貌におのおのの名前を呼び合うのです。あなたは妹の黒い喪章をつけ、わたしはお兄さまの黒い腕章を結んで、おたがいの美貌にやさしい指尖をさまよわせあうのです。そうしてあなたは、お美しいあなたの美貌とうりふたつの妹の美貌にあなたの名前をお呼びになって、わたしはわたしで、わたしのお顔とうりふたつのお兄さまの美貌にわたしの名前をお呼びして、そうしてくすくすわらってひとつの吐息に縺れ合ったり、吸う息のあいまあいまに吐く息を取り違えたりもしながら、ひどくつつましやかにおたがいの名前を交換するのです。」(千慶烏子『やや あって ひばりのうた』1998年 沖積舎刊)

このお互いの欲望を代弁し合う「わたし」の流動性、あるいはおのおのの名前を交換し合う「わたし」の流動性が、千慶烏子の一連の「代理=表象=上演」をめぐる方法論の根底にあり、本書を含むシリーズ作品でよりアグレッシブに展開されていると考えてもいいだろう。本書『クレール』においても、われわれの心の奥深くに潜んでいる何ものかが、あたかも名前を交換したわれわれ自身の鏡像であるかのように「わたし」を語り、神話的形象をまとってテクストの舞台に登場することになる。それは次のように言っても間違いではない。すなわち、それはテクストの舞台で「わたし」という仮面を付けて演じられている仮面の演劇である一方、またわれわれ自身が鏡を前に演じているような鏡像の演劇でもあるのだと。ここに千慶烏子のくらくらするような「代理=表象=上演」の空間が立ち上がる。そして、本書『クレール』では、この代理と表象をめぐる演劇的空間は、暗喩ではなく、文字通りの演劇的空間として出現することになる。

印象的なフランスの田舎の光景とともに描かれる女主人公クレールは、アキテーヌの葡萄園の娘であったはずだが、物語が進むにつれて、いつしか彼女は日本の神話・伝承を代表する女性像(!?)と鏡像的に重なり合ってゆく。あたかもその名前を交換したかのように、クレールは、東西の文化のへだたりを越えて、東洋の神話的人物へと変貌を遂げるのである。誤解を恐れずに言うならば、それはまさしく「変身」であり、しかも厳密な意味での「変身(メタモルフォシス)」なのである。二十世紀初頭のフランスの光景は、鏡に映った東洋の神話的光景と二重写しに描かれ、そこに本書のテーマである「転移」が発生する。まさに「わたし」が流動するのである。

おそらく本書はこの一点にのみ賭けられていると言っていいのかもしれないが、千慶の筆致は実に丹念であり、何重にも襞を重ねてテクストを織り上げ、緻密に光景を織り込んでゆく。その一方で、女主人公クレールは、作者の織り上げるテクストの襞を一枚また一枚と脱ぎ捨て、最後に驚くべき変貌した姿を現すのである。このときわれわれは、スポットライトを浴びて、舞台の上で輝いている女主人公の姿を見るであろう。文字通りの演劇的空間が立ち上がっているのである。

照明を受けて舞台の上で輝く女主人公の体現している原理が、上の惹句にある「神の女性的な部分、狂気のもうひとつの側面、全体的で命令的な連続する快感」という女性原理なのであるが、これはもう変貌したクレールの姿を通してご覧いただくのが一番であろう。つまり、それは名前を交換したクレールが被っている仮面をご覧いただくということである。そして、実に驚くべきことに、その仮面には名前があるのである。最後に、本書『クレール』には、これら三編の小文を書くにあたって大いに参考にした著者自身による詳細な「批評・解説」が収録されている。文芸批評や表象文化論に興味のある方は、ぜひ併せてご覧いただきたいと思う。(P.P.Content Corp. 編集部)

電子書籍案内
千慶烏子『クレール』ISBN 978-4-908810-19-0

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