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西田幾多郎の他者論

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西田幾多郎の他者論について。院試の際の提出論文。
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第五章 西田幾多郎の他者論 (+参考文献)

第五章 西田幾多郎の他者論 (+参考文献)

ブーバーと西田 西田幾多郎の「私と汝」に先駆けて九年前、マルティン・ブーバーが『我と汝』と題する本をドイツで発表した。この一冊は弁証法神学、ゴーガルテンの思想を介して西田に影響を与えたと言われている。だが筆者はここでその思想の影響関係を分析しようと考えているのではない。そうではなくてブーバーの他者論と比較することによって西田幾多郎の他者論がいかなるものなのかを明らかにしようと考えているのである。

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第四章 汝と相逢うこの「今」という場所

第四章 汝と相逢うこの「今」という場所

場所と行為 「働くものから見るものへ」という言葉は一見動的な立場から静的な立場への移行に思える。だが実際に目指されているのは顕在から顕在へ矛盾に移り行く生滅の場所なのである。掴みえない「今」は単に静観的に見られるものではない。それはリアルな行動をその底で支える無の場所なのである。それゆえ、論文「場所」の時点でそれと行為との関わりが語られていた。

唯、真の無の場所に於てのみ自由なるものを見ることが

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第三章 場所の「一転」

第三章 場所の「一転」

「一転」と「転落」 昨日の意識と今日の意識、そして私と汝の「個々独立」を肯定的に語ることのできる立場を西田はすでに『自覚に於ける直観と反省』そして『芸術と道徳』の段階で獲得していた。そうすると、この地点から後の「私と汝」を眺めたとき、一体どれほどの変化があるのだろうか。
 その変化はけっして小さいものでなかっただろうことは予想される。よく知られているように、西田は『自覚に於ける直観と反省』で到達し

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第二章 『自覚に於ける直観と反省』にみる他者論の兆し

第二章 『自覚に於ける直観と反省』にみる他者論の兆し

『善の研究』における他者 以上『善の研究』を概略したが、ここに他者論はあるだろうか。「個人あって経験あるにあらず、経験あって個人あるのである」と言い、個人の意識の統一と社会の統一、人類の統一、宇宙の統一までをも同一ととらえる『善の研究』において、個々人の関係などという問題は無視されているようにみえる。善という対他的とも考えられるテーマも、『善の研究』では「自己の発展完成」と捉えられているのである。

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第一章 『善の研究』の西田

第一章 『善の研究』の西田

哲学と倫理と宗教を一書に「統一」する何か 西田幾多郎の哲学のどのような側面について研究するにせよ、まずはじめに『善の研究』を概略しておかなくてはならないだろう。西田の哲学のそもそもの狙いを明らかにするためには、この出発点たる『善の研究』の内容を押さえておかなくてはならない。その本文はこのようにはじまる。

 経験するというのは事実其儘に知るの意である。全く自己の細工を棄てて、事実に従うて知るのであ

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「西田幾多郎の他者論」 要旨+冒頭および目次

「西田幾多郎の他者論」 要旨+冒頭および目次

 京大大学院、宗教学専修の院試の合格の報を受け取ったのはつい先週のことである。二年間の浪人生活はこれで終わるわけだ。しかしその感慨について長々書き連ねるのはよそう。これからのこと、これからの研究がさしあたり重要なことだ。今日から私は試験にあたって大学に提出した論文を一章ずつ公開することにする。これはこれからの研究を考えるならばまったく素描にすぎないものとなるのだろう。だが今の段階で公開することにも

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