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時を経て変化する「餃子作り」の意味

久しぶりに餃子を手作りしてみた。

手作りといっても餃子の皮は市販品を使う。餃子のあんを調味して手作業で包んだだけだ。

子どもの頃は、餃子の皮を祖母が小麦粉を練って作っていた。祖母が綿棒をくるくると器用に使うのを間近で見た記憶がある。

餃子の皮がある程度出来たら、連携作業で、餃子のあんを包んだ。



きょうだいそれぞれが異口同音に、餃子作りの思い出を話す。みな、餃子作りは楽しかったという。

実際、私も、餃子作りの思い出は楽しい記憶である。

けれども、自分がある一定の年齢になり、お金を稼ぐということ、生活を切り盛りすることの難しさを経験して印象は変化した。餃子作りの懐かしい思い出の意味が変化してきたのだ。



私が子どもの頃、我が家はとても貧しかった。

母によると、あの頃は日本全体が貧しかったということだが、いや、それにしても限度があるだろうと思うほど貧しかったのだ。

日中は、父と母が働く。父は就業後に夜間大学へ通う。定時で帰宅した母と入れ替わりに、祖母は夜の繁華街へと出かけていく。祖母は繁華街の食堂で雑用兼皿洗いの仕事をしていたからだ。



祖母が働いていたのは、満州帰りの店主が営む中国家庭料理の食堂だった。祖母はその店で料理の仕込みのようなことも手伝っていたらしい。その流れで自然と覚えた餃子の作り方。

我が家がお金に困っていなければ、祖母は餃子の作り方を身につける機会はなかった。私にとっての手作り餃子とは、そういう代物(しろもの)だ。

子どもの頃は、ただ美味しい嬉しい楽しいだけだった餃子作りの記憶。けれども今は、祖母が骨を粉にして働いた証となり、祖母の苦労の味として私の舌に優しく残る。



貧しかったね。

でもよく頑張ったね。

暮しが大変な中、育ててくれてありがとう。

そんな言葉を祖母に、父に、母に、かけたくなる。

久々に作った手作りの餃子は、不格好ではあったが、変化した思い出の意味が胸に刺さり、いつの間にか涙がこぼれていた。

まだ、まだ、頑張って生きたくなった。