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花への期待:生存戦略に絆されて

ほだされる。

この言葉を「情に厚い」と解釈すれば美点と受け止める人もいるだろう。だが本当にその解釈だけだろうか?

きずなと書いてほだすと読む。

絆という文字に、しがらみのような自由を奪うものという印象を持っていた。だから私は、何かにつけきずなを叫ぶ人たちに首をかしげていた。

だが、時と共に言葉の印象を再刷り込みされ、今ではきずなは、大切なものと捉えることが増えてきた。

しかしながら、ほだすという響きには、今でも残念な印象を持つ。先々迷惑なことが起きると判りながらも許容するしがらみとして捉えているからだ。



ある時、庭の芝生に雑草を見つけた。

葉の姿で根の形を想像し、根が横に広がるタイプだから抜くのは難儀だろうと判断した。だから一瞬でも早く抜くべきと思ったのだが「抜くのを躊躇う何か」が心の中でざわつき、直ぐに抜くことができなかった。

どこかで見たことのある葉脈が「キレイな花を咲かせますよ♡」と誘惑を仕掛けてきたからだ。

実際は、どのような花が咲くのかも不明であった。実際に花が咲くかもわからない。だが、それでも「何かの期待感」が私の心を捉えて離さなかった。




その雑草を見つけたのは秋の終わり。

冬越しへと時を進めた芝生はすっかり黄色になってもなお、雑草は青々と成長を続けた。

「花が咲くかもしれない」という期待感で抜くことを躊躇った雑草だったが、実際に咲くかどうかも怪しいくらいに、葉だけが生い茂っていく。

雑草が根を下ろした場所は近所猫の通り道だ。そのため、園芸用の草花の種を猫が体につけてきたのではと期待を膨らませた時期もあった。

だが、おそらくそういうことではないだろう。

なぜなら、水やりも肥料も、何も施すことなく、勝手に生い茂るからだ。これほどの生命力なら何らかの雑草と考えるのが理にかなっている。

そんな思索を繰り返しながら、期待が現実になる日を心待ちにしていた。



私は何を待っていたのだろうか?

おそらくは、単なる花としてではなく、別の意味を持つ花を待っていたのだろう。

たとえ雑草でも、どんな花であっても、咲いてくれたらそれでいい。

雑草を笑う人たちへ一矢報いる花を咲かせてくてたら、それで本望だ。

どれほどの花が咲いても、雑草は、決して主役にはなればいとわかっているのに。

ことの顛末は見えているのに。

それでも私は花を求めていた。


雑草を増やさない前提で考えるのなら、花が咲いたとしても、この場所で継続して咲かせてあげることはできない。

どのタイミングでこの雑草を見限るのか?

花を見てから、どれくらい待てるだろうか?

いや、実際に花は咲くのだろうか?

そんな押し問答を心の中で繰り返しつつ、日々成長する雑草を見つめていた。

私は、雑草の生存戦略にすっかり絆されていたのだ。

それに気づいたとき。

私は、その雑草を根から引き抜いて葬り去ることができた。

All that glitters is not gold.